ソコナワレルことについて

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小説

損なわれる

村上春樹の小説では、主人公が、よく言う言葉が沢山ある。それは、喪失とか損われてしまったとかの言葉である。更には、傷つけるという言葉もある。それは、何なのだろうか?何故、このような言葉を多用するのか?ソコナワレルという言葉の向こう側にあるのは何なのだろうか?

例えば、村上春樹の中編小説である「国境の南、太陽の西」では、次のような表現をしている。

しかし、実際にはそうなならなかった。実際には僕は彼女をひどく傷つけてしまった。僕は彼女を損なってしまった。彼女がどれほど傷つき、どれほど損なわれたかということは、僕にもだいたいの想像がついた。

もちろん僕はイズミを損なったと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深くー僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深くー傷つけたのだ。

「スプートニクの恋人」では、こんな表現があった。

すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないと僕は思った。少なくとも重なり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。

損われてしまうこと、そして、傷ついてしまうこと、そして、失ってしまうこと。この3つのキイワードが、僕をかなり混乱させてきたのだ。彼の小説のを読む中で、いつも。(ちなみに、今日は村上春樹の小説について書いているので、自分のことは僕と呼ぶことにする?)

井戸

ところで、村上春樹といえば、「井戸」である。とにかく、井戸が出てくる。かなりの井戸好きである。多くの評論家が書いているが、当然のことながら、井戸は自分の心を表現している暗喩だということになる。自分の心の中の深い井戸。そうなのだ。井戸に籠ってしまうことのよって、自分の心の中の深層領域に触れることが出来るのだ。

そこに自分が行くために、村上春樹の主人公達は、前提として、「損なわれ、傷つき、失われていく」ことが絶対に必要なのだ。当たり前だが、心の中に、そのような不安や葛藤がなければ、どんなに深く井戸に籠ったところで、深層領域にはたどり着けないのだ。

井戸が自分を知るツールだ。そして、井戸に入るための必要条件が、パスワードが、 「損なわれ、傷つき、失われていく」 ことなのだ。

失われること

人間というのは生まれると同時に、多くのことを得ると共に、多くのことを失っていく存在である。ここを否定する人はいないだろう。何もしないで生きることは不可能な存在が人間であるので、自分なる存在は、何かを得るためには絶対に何かを失わなくてはならない。物理的には、モノを得るために金を失わなくてはならないように。

しかし、村上春樹のいう「失う」とは当たり前のことだが、そんな物理的な話ではない。深層心理、精神世界において、自分の何かが、他人の何かが失われるのである。

ここが一番難しいところ。村上春樹の主人公達が井戸に籠ったりして自分の深層意識の中に入っていくのは、この失われているものの意味を知るためにあるような感じなのだが、そこが今ひとつわからない。確実に分かるのは、そのために、村上春樹は、メタファーというような二重構造の物語を用意してくるところなのである。二重構造物語を読むことで、なんとなく失われた感覚を知ったような気にはなるのだが。皆さんはどうですか?

傷ついて、ソコナワレルこと

失われることの意味が極めて難しいことが分かったと僕は勝手に思っている。それを教えてくれているのが村上春樹得意の二重構造物語であることも僕は勝手に考え、知った。それならば、傷ついて、損なわれることとは何か?

それは、もしかしたら、大人になるということなのかもしれない、と僕は勝手に、やはり、そう考えたのだったよ。

村上春樹の主人公達は、その年齢に関係なく、純粋な幼年時代から少年少女時代に得たであろう深い井戸の奥にあるであろう精神的な重要なモノを失うことで、代わりに大人になるのかもしれない。例えば、それは、突然に、この人は信頼できる信じられるというものを失ってしまうことで起きる喪失感に近いものかもしれない。大人になるために、その闇雲のダークな部分に折り合いをつけなくてはいけない。しかし、その折り合いがつけられないくらいにダメージの大きいものであった時に、人はどうするべきなのか、これを村上春樹の小説では、一番、言いたいんじゃないのかねと僕は、やはり、勝手にそう思うのだよ。

それが、傷ついて損なわれることの一番大きな意味なんだろうね。そこから、どう脱却していくのか?脱却できるのか?脱却するのは何をすれば良いのか?そこに執着しているのが、村上春樹だし、殆どの小説家の話は、程度の差はあれ、そういうことじゃなのかね。

そんなこんなで

損なわれるというキイワードで、村上春樹文学について、勝手に語った。全く、頭の中で僕が考えたものだから、却って、僕にとっては、超勉強になってしまったのだ。ブログを書くことの良さだね。いくつになっても勉強できるし、考えられるし、自分のモヤモヤが整理できる。後から見たら、きっと、エえーってなるかもしれないけど、これで、僕にとっては村上本の読み方の方法がまた整理できたわけです。また、こんな感じで、村上春樹に関しては、色々な角度で突き刺していく予定でありますよ、僕は。

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