フィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)について、また、記述する。それだけの魅力のある男。忘れてはいけない男であるからにして。
東理夫がかつて言っていたことがある。ハードボイルド小説はセンチメンタルがテーマなんだって。すなわち、センチメンタルな人間が主題の小説であると言い切ったような気がする。そして、ハードボイルド小説ってのは自分のために自分で書くもので、別に誰にも発表もしなくても良いものだとも言い切ったような気がする。その指摘というか視点に、当時の俺は随分と慰められたような気もするな。そうだよな。ハードボイルド小説ってのは自分のためにだけある唯一のものでそこに好きなキャラクターの探偵が出てきたら、この世界のアンフェアなものでもアンフェアなりの闘いが出来るんだろうなって気になったりもしたからな。当時、それなりに、心の中はグダグダで相当にセンチメンタルだった気がする。そのどうしようもない自分を陰で支えてくれたのが、チャンドラーでありフィリップ・マーロウだったわけだ。
このハードボイルド小説の探偵は数多く登場しているが、原点であろうフィリップ・マーロウを超えられる探偵がナカナカ出てこない。そのくらいに、マーロウはセンチメンタルな心根を持っていたのである。そして、センチメンタルに、往々にして、最後には友達とも思えてしまうそっちもセンチメンタルな人を探す男なのである。フィリップ・マーロウ。
「あなたが好きよ」と、彼女はいった。「悪人みたいに振舞ってみせておいて、その手前でとどまっている男に見えるわー一歩手前でね。」
碧い玉
自分が大した男でないことを知っているのが、フィリップ・マーロウなのだ。等身大のそのままの自分を認めて、そこに全く気どりも衒いも見栄もない。自分の心のスタイルというか独自のポリシーに、完全に拘る男。そこには、権威主義で尊大な輩達が権力をかさに彼を痛めつけようとしても動じることはないそのままの自然体の男がいる。そして、弱き者に対して優しいセンチメンタルなところがある。
「ここに来たら、何がなんでも賭けなきゃいけないのか?」と私は皮肉っぽく尋ねた。
あるかなきかの笑みが彼の顔に浮かんで消えた。少しだけ前屈みになって、彼は言った。「おまえさん、探偵だろ?賢い探偵さんなんだろ?」
「ただの探偵だ」と私は言った。「賢いわけじゃない。鼻の下が長いからといって、騙されちゃいけない。これは遺伝だ」
フィンガー・マン
多分、この『フィンガー・マン』という短編が、フィリップ・マーロウが形作られた初めての作品であろう。ここから、フィリップ・マーロウが始まる。
ところで、その後のフィリップ・マーロウは、実は読めば読むほど、この男、どんな奴なのか判らなくなってくる。それは、原尞も指摘しているところだ。レイモンド・チャンドラーの凄さは、読む人にフィリップ・マーロウを委ねてしまうところにある。読む人の解釈と感性によって、いかようにも染め上げられるのが、マーロウなのである。それ自体も、まさに、センチメンタルではないか。
「リンダよ。リンダ・ローリングよ。私をおぼえていらっしゃるでしょ」
「忘れられるはすはない」
「どう、元気?」
「つかれているーいつものとおりだ。しんがつかれた事件からやっと解放されたところだ。君はどうしてる」
「さびしいのよ。あなたに会いたいの。忘れようとつとめたんだけど、どうしても忘れられないの。あのときは楽しかったわ」
「1年半前のことだ。それに、たった一晩だった。僕は何と答えればいいんだ」
・・・・・・・・
「私、あなたにお願いしてるのよ。好きな男を自分のものにするには、女はどんなことをすればいいの?」
「ぼくにはわからない。女はどうしてある男を求めているということがわかるんだ。それさえ、ぼくにはわからない。われわれは違う世界に住んでいる。君はぜいたくに甘やかされている金持の女だ。ぼくはつかれきって、これからどうなるかわからない三文探偵だ。だいいち、きみのお父さんが僕の未来を抹殺してしまう」
「あなたは父を怖がってないわ。だれも怖がってなんかいないわ。ただ、結婚を怖がっているのよ」
プレイバック
あの有名なセリフは、村上春樹翻訳の『プレイバック』では、こういう文章に変形している。
厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。
優しくなれないようなら、生きるに値しない。
だが、やはり、フィリップ・マーロウのセンチメンタルには、あの言葉が大変似合うとやはり思うのだ。この方が、断然、センチメンタルだろう。
“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”
「タフでなければ生きていけない。
優しくなければ生きている資格がない」
コメント