村上ラヂオ:エッセイを語る②

エッセイ

連続物として、村上春樹のエッセイの話題テーマをネタにして、そのことに関連することを語ることをしたい。今回は、村上ラヂオにあるテーマについてだ。

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かなり問題がある

村上春樹は、「風の歌を聴け」で文芸誌の新人賞を受賞し、そこから小説家としての道を歩んだわけだけれども、その出版社に儀礼的に挨拶に行ったところ、「君の小説はかなり問題があるが、まあ、がんばりなさい」と言われたという。そう言われた背景には、「風の歌を聴け」という小説自体のスタイルがチャラチャラしているようにみられたらしいのだ。そこで、文芸を司る出版人や評論家達から今までの文芸の流れと違うアメリカ的ハードボイルド小説的文章に拒否感が強かったのだろうか裏の舞台はどうなっていたのかわからないけれど、そんなひどい言い方をされたのだった。・・・というエッセイがあったのだ。

今、時が流れ、相も変わらず、村上春樹に対する昔ながらのその手の文芸小説嗜好の人達の批判は鳴りやまらないような部分はあるものの、彼の小説は、今や、世界中の若者を中心に人気があるのは誰もが知っている。

そして、彼の小説の原点は、「風の歌を聴け」にあって、全ての小説は間違いなく、この小説の基本形を完全に踏襲している。その流れの中にある。丸山健二のように、途中から、新しい文学の鉱脈を発見したと言って、詩の世界なのか、古典文学の流れなのか、全く違った文体で違った小説への方向転換もないのだ。

しかし、最初に、彼の小説はかなり問題があると指摘されたのだ。偉い人に。

これって、果たして、何かを創造し発見した偉人は最初は変人と評される問題と同じ話なのかい?それとも、新しいことや知らないことには食わず嫌いのために人はそういう反応するのが通常なんだって言うことかい?

村上春樹はエッセイの中で、皮肉を込めてなのかどうかは知らないが、「かなり問題を抱えた人間がかなり問題を抱えた小説を書いている」から、しょうがないじゃんと開き直っている。

しかし、我々の日常は実にこういうことの小さいバージョンの繰り返しかもしれないなとも思うことはあるね。今だって、一人間としてのコロナの日常的な対策の中で、マスクの利用の仕方を始めとして未知なるものに対しての対応は人それぞれで多分それはかなり問題を抱えているけれど、それを自分の判断の中で実行しているのだ。そして、それを往々にして、なんとなくマスコミや感染学の偉い人達の唱えるところの大衆迎合的な流れと違うと、それに対して人はかなり問題があると指摘することも多いだろう。

人は、多くの人がそうあらねばならないというような方向性と違うと、かなり問題があるとするのがお決まりのようなのだ。コロナの場合は生死に関わるし医学生物学的な大きな問題だから、全体の流れに従うのはある程度やむを得ないところもあるが。

だが、このかなり問題があるとの指摘を受ける中にも時として、それなりの発見や未来の有能な何かに繋がることがあるのだとしたら、「かなり問題がある」との指摘案件は、かなり、面白いものではなかろうか。そう思ってしまう。

箸にも棒にも掛からぬクダラナイものを捨象さえ出来る能力さえあれば、捨象しても残った「かなり問題がある」というものに対しては、それなりに敬意(?)を払って、頭の片隅に置いたり研究したりそれなりに大事にしても良いのではなかろうか。そして、その「かなり問題がある」ことを作成したり発言したりする人を変人とまで考えずに、別の観点から眺めてみても良いのではなかろうか。

スウェーデンではコロナに対して感染して抗体を作るべきとの「かなり問題がある」対策を実行しているような話がある。果たして、これが全くどうしようもないことなのかどうかわからない。

これは大きな話だが、小さな日常における「かなり問題がある」と指摘される話や製作物は多分その持っている中身がかなり面白く議論の余地がある位に中身は濃いのである。その中身に入らずに、それを切り捨てるのはどうかね?

「かなり問題である」と指摘される何かを自分も作ってみたいものだ。

これでいいや

村上春樹のエッセイの中で、顔の美醜に関して、「これでいいや」というところで記述がある。

僕はこれまで「もっとハンサムに生まれたかったよ」と思ったことはない。よく思い出せないけれど、たぶんないんじゃないかと思う。僕がそう言うと、うちの奥さんは「あなたって本当にあつかましいわよねぇ。まったくどういう性格をしているのかしら」とあきれる。でもそれは違う。けっしてあつかましいわけではないんです。これまでとくに何か不自由した記憶もないし、不便も感じなかったから、「べつにこれくらいでいいよ」と正直に述べているだけであって、決して「現状でじゅうぶんにハンサムだ」と主張しているのではありません。そこには大きな違いがある。

村上ラヂオ これでいいや

村上春樹の小説には、特に、女性はとても綺麗な人は出てこない。でも、とっても惹かれるものを持っている人として表現される外的風貌を表現されることが多い。つまり、村上春樹自体、人の美醜に関して、とりあえずは、一般的な美しさメーターを外しているのだ。だから、こういう記述になるんだというのではなく、重要な次の指摘のところなんだろうな。

そして今思いかえしてみて言えるのは、「どうやら彼女たちは、ハンサムだからという理由から、僕を好きになったのではないみたいだ」ということです。おそらく僕の考え方や、感じ方や、好みや、話し方や、そんないろんな要素(顔だちだって少しくらいは含まれているはずだと、ひそかに自負しているのだけれど)を総合して、その総合体としての僕を、たとえ一時期であるにせよ気に入ってくれたのだと思う。

村上ラヂオ これでいいや

当たり前のことだろうと、人はそうやって人を好きになるんじゃないのかと言いたいところだな。ここは。人は外貌だけでなく心も含めたその全体・総体を好き嫌いすんじゃないのかと。

ところが、近頃の人はそうでもないらしい。まずは、好き嫌いの全ての前提が外貌だと。本当かい。世の中、変わったんか。それとも、正直になったんかい。

自分に関して言うならば、好きな映画に関しては、申し訳ないが、顔から入るね。昔は特に、美男美女優先だったような気がする。ただし、そこは、今では、かなり個性的な顔立ちの俳優に移行している。とは言っても、そこは、外貌中心だ。つまり、映画なんていうその俳優の本当の心の中まで読めないエンタメでは、外貌から行くしかないのである。

つまりなのだ。人間は遠くにいる誰かに関しては、外貌でしか判断がつかんのだね。近しい人に関しては、村上春樹のいうように、その人の総体でみれるのだ。

これは、あつかましいことでも何でもなく、人という動物生命体の選考基準ではなかろうかね。外貌は種の保存のために当然必要なものなのである。と、僕は勝手に思うのだ。ただし、そこにあるのは生殖したい相手を動物として考えた場合に、顔の美醜がひとつの大きな決め手になるということなのである。

原始の時代、人が人ではなく動物であったような頃、外貌こそが全てではなかったろうか。とすると、ここまで生き抜いてきた人間のDNAの中には、この外貌優先論が当然存在しているのに違いないと、思ってしまうのだ。

ということで、人は顔の美醜に関しては本能的に大事なことと知っている。ただし、人は近しい人を見つけられれば、そこにその人の他の価値を加えていけるというような、実はけしからんあつかましい存在なんではないのかと、思うようになってきたこの頃なのであります。

変な方向に進んだかな。でも、そうでもしないと、何故、女性が化粧をするのか根本的な理由がよく判らない僕なのでありました。

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