この麗しき事務所(1)

ショートショート

この事務所に移り住んでから、ようやく1年が過ぎた。新宿の西口と言っても、駅の西口や南口から遥かに西に離れた場所にあるその古いビルは、もはや新宿が起点とは言うのも如何なものなのかもしれない。むしろ、が近いのだ。このビルは多分都が有形文化財にしたいに違いないと思えるほど、朽ち果てている。当然、俺はそこの横を自転車で通るたびに、その朽ち果て放題さに感心し空き家として残しておく意味をいつも考えていた。

その頃、俺はある会社に勤めていて給料をもらっていた。とても安い値段で買われていた。本来ならそんなものを出すことがないほど脆弱な小企業であったが、何故か、給料以外に交通費を出してくれていた。電車代とバス代だ。月の交通費が現金支給でもらえていたので、当然ながら俺は、1時間半をかけて自分のアパートから自転車で通勤を開始していた。会社の人達は知られないように。つまり、定期代を自分の懐に入れていたのだ。それでも、1ヵ月の給料と定期代は低かった。会社にバレないように会社の近くの色々な場所に俺のママチャリを停めておいた。ママチャリも古くて盗む様な人はいなかったから鍵をかけなくても良かったが、都が廃棄物として回収する可能性もあり俺は鍵をかけていた。そのような自転車通勤を続けていく中で、俺は毎回毎日、自転車置き場を探すのに若干疲れてしまっていた。それで俺は、この古くて空き家であろう緑なすビルの後ろ側に駐車スペースがあるのを発見し、そこに、無断で駐輪することに決めたのだった。まあ、空き家であろうし、こう長年見る限りそのまま放置されているのはこれからも続くと思えたからだ。

蔦が絡まり琉球朝顔がはびこり緑がコンクリートを覆っている風情は夏ともなればそこだけが亜熱帯のジャングルを想起させてくれていた。冬ともなればそれなりに朝顔が枯れビルのくすみと同じく朽ち果てた茶色がその周辺の寒さを更に引き立ててくれていた。そこに自転車を止め始めて半年経った午後4時くらいに帰るためにそのビルの駐輪場所に行ったところ、自転車の横に老人が立っていた。長い白髪を伸ばしたどこからどう見ても仙人にしか見えないような老人だった。ユニクロのブルーブラックのダウンジャケットとジーパンをはいていた。痩せて長身だった。このビルの持ち主か?それとも。咄嗟に俺は無関係を装い、通り過ぎようとした。彼の横を通り過ぎようとしたときに老人から声をかけられた。低く乾いた声だった。

「この自転車の持ち主だろう」

俺はビックリして、振り返ることも出来なかった。

「そうだろう。どうして、通り過ぎるんだい」

俺は凍り付いた。それなりに寒かったけど、本当に背筋が奮えた。

「上から良く見ていたよ。君が自転車をここに停めて、半年くらい経つかな」

俺はゆっくりと振り返ることにした。それも「ハイ」と答えて。

老人はスッキリとした形の良い鷲鼻と人を射るほどの眼光鋭い目を持っていた。細面の昔は多分大変にイケメンであったろう。その圧倒的な存在感に、俺は思わず、「申し訳ありません」と答えていた。

それから不思議な話が老人から持ち上がり、俺は今、このビルに住んでいる。このビルから1時間半以上も自転車でかかるアパート(学生時代から住んでいたある意味愛着のある部屋であったが)を翌日には解約して、少ない荷物をその日のうちにこの古いビルの4階の西側の一番奥の部屋に入れ込んだのだった。老人の指示する通りに。

その部屋はとても暗かった。ただ、午後日が傾くと、西日が黄金色に輝いて入ってきて、一瞬の時間ではあるが、温かくなった。それ以外は壁も床もドアも窓も全て黒に近いブラウンで古色蒼然としていた。

老人からの提案は次のようなことだった。このビルの管理人をやってくれ。あんたに払う管理料は部屋代をタダにするので、ここに住んで良い。ビルには人がいないように見えるが、実はいる。だが、その彼らに、管理人として何もしなくて良い。なるべく早めにここに移り住んで欲しい。あんたに貸す部屋にはシャワーも付いている。そして、可能なら、探偵事務所の看板を掲げて欲しい。当然だが、今仕事についているのだろうから、その仕事を辞める必要は全くない。探偵事務所の仕事など一切しなくて良い。と言っても、仕事をするために資格を持たなくてはならないから、そもそも出来はしないが。というような訳の分からない提案だった。

何故俺に。こんなとっぴんひゃらりの提案をしてくるのだ?俺の心を見透かしてか、老人はニヤリとして言った。

「それは、あんたがとっても素敵だからに決まっているだろう」

どちらにせよ、俺はこの老人の提案に何故か応じた。簡単に。老人からヤクザや悪人の風を感じなかったし、とても紳士に見えたからだ。それと、この古ぼけたビルに興味があったのと無料という経済的な理由に乗ったのだ。ええい、どうにでもなれ。世は人の繋がりだ。一合一会。これを一合と呼んでいいのか甚だ疑問であるが。

そんなこんなで、俺はそのビルに住まうことになったのだ。

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