焚火をしてなにも考えない哲学

哲学

近頃、焚火のことばかり考えていて、ブログの記事も他の何かもあまり手をつけなくなってしまった。どういうことか。

先日、出掛けた電車で2時間少しで行けるところの山の中のキャンプサイトでした焚火の時間に心が戻っていってしまうのである。その時間はバーベキューをした後に、薪に火をつけて焚火をして、ただただ酒を飲み、炎を見つめては少しは友人と話もして、そして、また、静かな夜の中で、炎だけ見つめて暖を取るというだけのことなのだが。時折、夜空の星を眺めることもしたりして。その時間がとても良かったのである。無に近いようなことなのだけれど、何か考えているようで何も考えていない時間のような感じもあって、日頃、パソコンに向かって何かを打っているときの自分の世界とは明らかに違う空気の流れがあったのである。それは、それだけで、静かな夜の俺だけの宇宙でもあったわけなのである。そんな壮大な気持ちにもなってしまった俺がいたのである。

そんなこんなで、パソコンの前にいる時は、焚火やソロキャンプのYouTubeかネットでキャンプ道具を見ている時間が増えていったのであった。

巷で、ソロキャンプが流行っている。その人気の根底にあるのは、もしかしたら、こういうような感覚に繋がることなのかとも思えてきた。自然と触れ合わない時間を多く持ちバーチャルな世界が前提になっているようなネットと面と向かっていると、失われているものが何なのかを焚火をただ見るという行為を続けることによって知ることが出来るのかもしれない。

頭の中でのみ考えている時間ばかりが多いような日常生活。人間として持っている本能の五感自体をそれほど働かせていない時間が多い日常。どうも、焚火にハマっていく世界には、意外と、日常生活で積極的に使っていないこの人間の本能に近い五感のフル活用があるのかもしれないのではと思い至ってきたのかもしれない。焚火の出来る外にいることで、そもそも、人は自然の音を聞く感性を高めるのだろう。風の音、焚火の薪の爆ぜる音、流れる水の音。炎を見つめることで、見る感性を高めるのだろう。それは夜になり星空の星と銀河を見ることで更に研ぎ澄まされる。火の燃えて煙の中で嗅ぐ匂いや草木の匂いに鼻の感性は高まるのであろう。そして、焚火で作るチョットした料理に舌の感性は多いに高まるのであろう。何故か自然の中で食べると、とても美味しい。そして、それなりに、体を動かす。焚火と対峙する中で、人間の体の感性が自然と高まるのであろう。

こんな感じで、俺は焚火をする行為の中に、人間の五感である「目・耳・鼻・舌・身」という五感を能動的に自分で使おうとするということに何故か気がついてしまったのだ。そうなのだ。焚火なるものは、人間が本来行使していかなくてはならない五感のフル活用を短時間にしてくれる有難い存在であることを私は勝手に思い知ってしまったのである。

結果、俺は、パソコンで作業することに若干の疲れを感じてしまったのだな。多分。それで、今、俺は永い休憩しているのに違いない。

勝手な思い込みであるような気もするが、結構、これは哲学的な事だったりするんじゃないかなと思ってしまう自分がいたりする。無、無、無。ム、ム、ム。これは結構大事なことなんじゃないかい。そこで、こんなふうに、徒然と、記しておくこともしたりする。

そうなのだ。焚火をして炎を見ているときに、俺はなにも考えていないような身体状況に陥っているのではないかい。そこが実はとても気持ち良くて、こんなクダラナイようなことを想ってしまったりしている。そういうことではないのかな。自然と五感の能動的なフル活用がありつつ、考えていないような至福な状態にあるのではないか、と。これは発見ではないか。

自然に簡単に入れるところで、焚火をするだけで、実はチョットした無の瞑想時間に入れているのではなかろうか。これは、実は、座禅でもあり、ヨガでもあるのだ。なんてね。

でも、そう考えてしまうような、とても、温かい人間本来の時間がそこにあるような気がしませんかね。焚火をすることで何も考えない。そこには、無限の幸せがあるような気がします。

焚火をして何も考えない哲学が、そこには、きっと、ある、のだ。

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