片岡義男のエッセイで、気になるものを更にみつけてみようではないか。今回も、前回の記事と同じく、機械を通じて思うあたりのエッセイだ。
1台のオートバイが、ひとりの現代人を不安から救った
次のエッセイは、オートバイについてのことだ。紹介の本は、『息子と私とオートバイ』だ。著者のロバート・パーシグが39歳の時に11歳になる息子をタンデムに乗せて、バイクでミネソタからカリフォルニアまでオートバイで旅をした体験が書かれているものだ。
このエッセイも、前述のフォルクスワーゲンと同じように、機械と人間の交流の話でもある。
オートバイとのつきあいをとおして、このロバートは、さまざまな感覚や知識を自分の内部でひとつにまとめてあげていき、オートバイという機械の合理的システムの追求だけでなく、自分の中にひとつのたしかなことをつかんでいき、自分の精神障害の自己治療ができたことを述べている。
ロバートはこう言う。
オートバイは車と違い、密室ではない。自然が体の中に溶け込んでくる。
いつのまにか本当の生活は都会の雑踏のなかにあり、田舎は都市生活の退屈な背景に過ぎないと信じ込んでいた。
片岡義男はこう言う。
オートバイと私とが完全に一体になったとき、それこそほんとうに自分が手にしなければならない真なるものでありよきものであり、禅的なものといえる道でもある。
このエッセイでオートバイとの一体化を目指す理由を、片岡義男は指摘する。それは、現代人が生まれながらにして自分の内部はいつまでたってもからっぽのままだという不安を抱えているということだ。ここが重要な点なのだ。この不安を解消してくれる機械としてオートバイの存在がある。
そして、このオートバイとの旅を続けることによって、現代人の特徴を知るべきだとも指摘する。
自分はなんにも知らないしたしかなことはなにひとつできないまったくの最低の能無しなのだという特質をだ。多分、その当時でも都会や広告媒体やマスコミなどから与えられる情報やノウハウだけでは、実は本当の生きるノウハウや本質をつかむことがかなり困難である特質や特徴を自分はまとっていることに注意喚起をしているのではないだろうか。
そこを超える機械として、オートバイとの一体化があるのだろう。
自分は大型二輪の免許を持っていないが、学生時代、友人の750CCのバイクを大学構内で乗ったことがある。人のいなくなった夕闇迫るキャンパスの道を。大きかったし、自分の体の預け方一つで揺れ動くこのマシーンは物凄い怪物だった気がする。もう少しで、転倒しそうにもなっていた。周りの景色も自分もいつもと違っていた。あの時に感じたことは、瞬間だが、今生きているという感覚だった。それは間違いない。ちょっとした今からの離脱は、オートバイを乗ることには、やはり、あるのかもしれない。
コメント