猪狩進太郎のそれ

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ショートショート

猪狩進太郎はそれなりの歳だった。だが、元気だった。髪はかなり白いものが目立つようになっていたが、蓬髪であった。なので、大学を出て長年お世話になった会社を55歳で辞めさせられた後、第2の会社に再就職してからは、その会社が緩い体質の広告代理店であったこともあり、髪の毛を伸ばし始めたのだ。

そして、彼は若い時にやっていたサーフィンをすることにもした。但し、ロングボードとボディーボードを2つ海に持っていき、その時の気分と波の状態で、適当にやることにした。自転車や水泳というレベルと同じで、昔ショートボードを結構やっていたので、すぐにロングボートには立てた。ボディボードは楽だった。簡単な本とネット情報で、初心者のレベルの乗り方はたやすく出来るようになった。

猪狩進太郎は未だに筋肉質でお腹は出ていないし、脚力が相当ある。そういうのも、多分、2歳から始めたサッカーの経験がかなり長かったことも関係があるだろう。高校まで本格的にサッカーをし、会社に入ってからもサッカー部の所属し50歳近くまでプレイをしてきた。大学時代はサッカーをやらずに、遊んだ。その中に、サーフィンもあった。

猪狩進太郎の出身地はサッカーの盛んな海辺の街だった。しかし、自分の街の海は砂利が多く、サーフィンには向いていなかった。少し足を伸ばせば、白い砂浜と贅沢な波があるところが幾つかあったが、当時は、そこまで、サーフィンは盛んではなかったし、ナンパな奴らがやるものだと猪狩進太郎も思っていた。興味など湧きもしなかった。

それでも、中学の後半あたりから、雑誌のポパイやホットドッグが人気になってきて、ハマトラファッションなんかが話題になってくると、周りのナンパな男どもが洋服に目覚め、海とサーフィンを女性にモテるための材料にし始めてきた。そして、その連中とは、猪狩進太郎はやはり距離を置いていた。

猪狩進太郎は細面で背も高く、なかなかのハンサムなのだが、奥手であった。そして、軍人出身の父親の関係で、幼少期から厳しく育てられたので、男らしくが家訓に近かった。勉強は当然のこと出来なくてはならなかったし、運動もある程度以上のレベルを要求された。猪狩進太郎は幼稚園の時から剣道も柔道もそれなりに父と父の弟子から学んだ。猪狩進太郎の家は旧家で古く、道場まで持っていた。

小さい時からサッカーを許されていたことが、猪狩進太郎にとっては救いであった。父親の持つ威厳と規律の厳しさから逃れ自由を少しだけでも謳歌できるのは、サッカーをしている時だけであった。

そのような環境を作ってくれたのは、母であった。母は美しい人であったけれど病弱で父の三歩も四歩も後ろを歩くある意味古風な人であったが、このサッカーを猪狩進太郎にさせることについては一歩も譲らなかった。

いつか、そのことについて、母に話を聞きたいと思っていたが、猪狩進太郎が高校生になった春に、母は若くして逝ってしまった。

いつの間にかというよりも、昔から、猪狩進太郎の家の中もそうだし、近くには、あまり女性のいる世界はなかった。歳の離れた母親の違う兄がいたが、兄は家を出て、遠くで医者をしている。お手伝いの女性はいたが、長らく家に住み込みで働いているおばあさんのような人であった。

大きな古い黒い屋敷に住んでいたが、広いだけで、とても心細い空間だった気がする。父がまた人付き合いの悪い人間のようで、心を許すごく少数の友達と弟子たちしか周りにいなかった。

信じられないが、猪狩進太郎は、小さい時から高校生になるまで、武士のような生活を送っていたのである。

こんな猪狩進太郎がどんな人生を送ってきたかということや今どういう生き方をしているかとか、くだらないようでくだらなくなくはないことをツラツラと猪狩進太郎になって宣べていきたいと考えている。それはもしかしたら、あなたの人生ともダブるかもしれない。

猪狩進太郎。今を生きている。

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