浜辺に下りていく人

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ショートショート

自分の家から海辺までは、ほんの10分程度だ。小高い坂の上にある俺の家からその坂を逆に下っていく時から、海が真正面に良く見える。この家を買ったのは正解だったといつもこの坂を下りながら、思ってしまう。多分、俺はニンマリとしているに違いない。電車の駅からは遠いし、スーパーマーケットも近くにはない。コンビニがあるが、毎日の食事用の食材は少ない。週に1回、車で遠くのホームセンターまで出かけて大量にまとめ買いをして、何とか、それなりの自炊生活が出来ている。海の近くで生きていくっていうことはこういうメンドクササもひっくるめたことなんだろうなと感じている。

俺は、通常の仕事では、損害保険会社の損害査定をしている。転勤する必要のない地域限定社員として、この浜辺の東の岬を超えた向こうにある小都市にあるビルで働いている。自動車保険から傷害保険から製造物責任保険まで、ありとあらゆる種目の事故損害査定処理をおこなっている。もう20年も続けているので、ベテランだ。仕事を始めた頃は、電話応対や接客応対を通じてのクレーム処理の相手との交渉に手を焼いた部分もあったが、慣れるに従って、どうということも感じなくなっていった。

まあ、慣れたというのも少し違うかもしれないな。さっき、通常の仕事と言ったが、この損害保険会社に入社して1年過ぎてから、あることがキッカケで、通常じゃない仕事を請け負うことになったために、損保会社の世界では誰も嫌がる損害査定という業務に何の痛痒も感じなくなったというのが正解かもしれない。

その仕事は何かということだが、それは公だって言えるような仕事ではない。まあ、一言で言えば、請負業務だ。依頼を受けてその業務を遂行して契約したお金を貰うというものである。

その請負仕事の収入は仕事内容によってマチマチであるが、総じて、俺の通常業務の年収よりも1回あたりの仕事の報酬の方が高いのが実態だ。ある意味、物凄い効率の良い副業なのである。

そういうことで、俺は今もここにいる。昼の顔のサラリーマンをしながら、裏の顔のスポット業務を1年に数回はおこなって、この海辺の近くにいる。その仕事の依頼は必ず、連絡もなく、突然に、俺の降りていいた先にある浜辺でおこなわれる。

俺は必ず陽の上がる前と陽の沈む前に、毎日、浜辺に降りていく。今も、その2つの時間帯にサーフィンをしている。必ず、毎日だ。それが日課であった。必要だったのだ。海に入ることと砂浜を駆けることが。

なので、俺は、絶対に、昼間の仕事の残業はしない。今でこそ多くなってきたが、昔は考えられなかったシフト勤務を俺は作り、それを実践し会社に定着した人間なのでもある。朝7時から午後3時までの勤務ローテーションである。そして、俺は10年過ぎた辺りから管理職にならないかと打診もされたが、全て断ってきている。いつの間にか、裏のスポット請負業務が俺のライフワークに近くなってきていて、そのためにサラリーマンをしているという感じになっていたのでもある。

スポット業務があるので、俺は確実に監視されていることは判っているのだが、未だに、その相手なのか組織なのか、請負業務をくれるそのものの実態を知らない。一度は調べようかとも思ったが、そのこと自体が俺の未来を喪う可能性が強いとも思い、何もしていない。

今日の波はそれなりに良かった。ここ数日、穏やかなうねりで静かな海であったのだ。時間にすると、1時間も俺は海にはいない。そして、近頃は、沖でウェイティングしている時間の方が長い。だが、その時間は至福でもある。何も考えない。これがないと、スポット業務を実行した後の何とも言えないやるせなさと疲労を癒すことができないのではないかと思ってもいる。

海から上がり、自分のバックパックと折畳みイスを置いてあるいつもの場所に戻ると、バックパックの中に四角い付箋が入れてあった。請負業務の連絡だ。必ず、俺が海にいるときに、この連絡付箋が来る。浜に近いところで浜を海から見ていると絶対に付箋は入って来ない。俺が沖合で浜が遠くに見えるときに、付箋は入ってくる。どこのどいつがこれを入れてくるのだと何度も見つめていたことが昔あったが、その入れる瞬間をキャッチアップできたことは一度もない。不思議なくらいだ。なので、諦めた。指示を受け、そこから連絡を取り、実行をするだけの話だ。

今回の付箋には、こんなことだけが書かれていた。

イエ カギ 34ボックス ショリ(ショチ) 0606 010225020404

自宅にコインロッカー34番の鍵を置いた。処理だ(処置ではない)。6月6日期限。方法は自由。2月25日生まれの女。不明点についてはいつもの通りに連絡せよ。

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