エッセイ哲学:串田孫一①

エッセイ
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エッセイは流れる

エッセイは世の中にごまんと多い。そして、自分に合うエッセイから自分の嫌いなエッセイまで、ごまんと多い。世の中、人の数だけ、エッセイがあると思えば、良いか。ただ、エッセイはエッセイなだけに軽く自分の思うことを流して消えていくものというのも、ナカナカ、哀しい。そこで、ここは、自分が勝手にこれは面白いことを言っているな、フムフム、それは哲学的な発見というか指摘だなというものは残すのが大事なんじゃないかと考え、エッセイ哲学と銘打ち、それなりの記録をしていきたいと筆を取りました。

人もモノも時代も景色も自然も愛する人も家族も何もかもが、時の経過とともに流れていきます。消えるものもあり、忘れ去られることもあり、手から落ちてゆく砂粒のように、はかないものです。エッセイなんてものは捨て置くもの、流すものと思っていましたが、どうにも大事なことを伝えたがっているかもしれない、もしくは社会に残すべき1つの記事だと思えるものもかなりあるような気がしてきたので、このエッセイ哲学というカテゴリーの中で、少しだけ、活かしておきたいものとして、残すようにしていきたいと思っています。

ところで、どうしてこんなことを想うようになったのかと言えば、それは、あることがあって、妻の実家に行ったときに残しておいた学生時代の昔の本が屋根裏部屋に多く残っていたため整理していた時に、串田孫一のエッセイ集を2つ見つけたことから始まります。その黄ばみが多い串田孫一の本は、旺文社文庫の「考えることについて」と講談社文庫の「愛と幻想」という随筆集です。何故か、この2つが気になり捨てることも出来ず、自分の家に送付しました。そして、それから既に1年近く経つのですが、何かふとした時に、この2つをツラツラと読んでいる自分がいたのです。

最初は自分の仕事や趣味の合間に読んでいたのです。ホントにリラックスするために。でも、近頃、何故自分はこの本をそんなに手に取るのかなと考えたら、それは、この人のエッセイの向こうにある哲学がきっと好きなんだなとか、こういうことは他の人にも伝えておきたいなと感じていることがようやく分かり始めたので、ここに至った訳であります。なので、エッセイは流す存在かもしれないが、数あるエッセイのいくつかには、大事な指摘めいた哲学的めいた何かがあるので、そこを掘り起こしておきます。

なので、まずは、その串田孫一のエッセイから、いきましょうね。

串田孫一

まずは、彼の紹介をしておきましょう。知らない人が多数でしょうから。旺文社文庫の「考えることについて」の本を開いたら書かれている「筆者紹介」をそのまま下に記しました。

エッセイシスト、詩人(「歴程」同人)。大正四年、東京に生まれる。父は三菱総理事串田萬蔵。暁星中学、東京高校をへて、昭和十四年、東京大学文学部哲学科を卒業。昭和四十年、退官するまで、東京外国語大学、國學院大學など各校で教鞭をとった。フランス・モラリストの研究に造詣が深い。中学生時代より登山に親しみ、「山のパンセ」「若き日の山」など、山関係の著書も多い。また絵画、音楽にも造詣が深く、自ら絵筆をとりアイリッシュ・ハーブを奏でる趣味人でもある。

考えることについて 串田孫一 旺文社

どうなんだろう。この人の著作を読む限り、この人を一言で言い表すのならば、やはり、モラリストという言葉がとても似あっている感じがあります。

串田孫一は登山家であるように詩情豊かな人のようだ。そして、自然と人を愛する人のように、とても、人間味に溢れた思索家でもあるようだ。1つ1つの随筆の記事が哲学的とすらも感じるのは、そんなところからなのだろうか。

そこで、今回のスタートは、串田孫一のエッセイの1つからにしよう。

愚かさについて

串田孫一の随筆「考えることについて」の「愚かさについて」の一文にこんな箇所がある。

愚かさは無知ではない。私たちが、知らずにしてしまうことは愚かさとは呼びたくない。夏の夜の焚火の中に飛び込んで死ぬ虫も、アメリカ大陸を知らなかった古代人も、宇宙について僅かなことしか知らない現代人も、無知とは言えても、その為に愚かだとは言えない。人間の愚かさというのは、知っていながら、それを知らなかったと同じような行動をして、酷い目に遭ったり、失敗をしたり苦しんだりしていることである。フランスの医学者シャルル・リシェという人がいたが、『人間愚かなるもの』という本の中で、大体同じようなことを書いている。愚かさとは、私どもが理解しなかったことではなくて、あたかも理解しなかったように行動していることを指す。私どもあは何がいいか、何が悪いかをちゃんと心得ているのに、それにも拘らず自分を苦しめたり、不幸の原因を十分に知りながらそれを避けようとしない、それが愚かさである。

考えることについて 串田孫一 旺文社

そして、その愚かさの原因は何かと言えば、串田孫一は知恵の使い方が下手ということ以外には考えられないと指摘する。賢くなるというのは、与えられた知力・知恵を立派に使えるようになることだと。平和が願わしいことは知恵を与えられた人類の尊い発見であると。

なるほどと。こういう観点から考えると、某国の首席は愚かしいと考えて良いな。当たり前のことだろうが、この男、平和とは真逆の戦争を呼び起こすようなことを何度も繰り返しているのだ。知恵の使い方を誤った愚かな行為と言えよう。コロナの発生原因を否定しコロナ情報を遅延したと言われている某国の判断者も、仮に、それが事実で、世界が平和とは別の方向へ行くと知りながらその判断をしたのであれば、それは、愚かさと言えるのかもしれない。

こういう観点から、愚かさということを改めて、自分の日常において、自分や周りを見ながら考えていくのは大事な感じがするな。愚かさということについて、あまり深く考えたことがなかったので。

とにかく、自分と自分の近くの周囲を見つめる生活が続いている。ということは、かように、自分の中に何かを蓄えていく大事な時間を持てたということであるので、まずは、何かを通じて考えることを敢えて自分に課すのも一つの手かなとは思うのであります。

だから、エッセイや随筆も、重要な起点なのであります。私にとって。

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