谷川俊太郎-その壱(スクラップ)

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谷川俊太郎が死んでしまった。悲しい。惜しい。残念だ。もう、新しい彼の言の葉を聞くことが出来なくなってしまった。永遠の宇宙の彼方に行ってしまった。彼の死は、本当に詩になって残ってしまった。だからこそ、心に残しておいて、いつでも彼を想い出していこう。そうすれば、永遠に彼は僕らの宇宙の真ん中にいるはずだから。

彼の詩は、とても、温かった。そして、優しかった。永遠で、宇宙で、何処にでも飛んでいけた。争いのない世界があった。

そこで、谷川俊太郎のスクラップを少しだけ、集めてみたよ。そのメッセージの凄いこと。惚れちゃうね。この人の心。

宇宙

大好きな谷川俊太郎。好きすぎて、いつしか、俊太郎は僕の息子にもなっていた。悪ガキなのである。僕の中で息子の俊太郎は悪童そのものなのだ。だからこそ、あんな素敵な詩が書けるのだ。そんじょそこらの優等生には、あんな詩なんか書けるわけがないよ。そうだろ。それが真実というものだよ。

若い頃の谷川俊太郎の詩に僕は、宇宙の遥か彼方や宇宙についてのSF映画を感じる。今でもだ。あの頃の谷川俊太郎の詩には、計り知れない無限と空(くう)や無の怖さと若さの迸りを強く感じていた。世界はちっぽけな自分に対して、とても大きくて傲慢だった。

ネロー愛された小さな犬に

谷川俊太郎の代表的な詩といえば、二十億光年の孤独かもしれないが、僕的には、やはり、文部省御用達の「ネロ」だろう。この詩の今で言うなら、胸キュンがやはり良いのだね。哀切のある青春のスタートって謂うのかな。そんな感じ。

ネロ

もうじき又夏がやってくる

お前の舌

お前の眼

お前の昼寝姿が

今はっきりと僕の前によみがえる 

おまえはたった二回程夏を知っただけだった

ぼくはもう十八回の夏を知っている

そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろな夏を思い出している

メゾンラフィットの夏

淀の夏

ウィリアムスパーク橋の夏

オランの夏

そして僕は考える

人間はいったいもう何回の夏を知っているのだろうと 

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全くの別の夏なのだ 

新しい夏がやってくる

そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく

美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうすべきなのだろうと 

ネロ

お前は死んだ

誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って

お前の声

お前の感触

お前の気持ちまでもが

今はっきりと僕の前によみがえる 

しかしネロ

もうじき又夏がやってくる

新しい無限に広い夏がやってくる

そして

僕はやっぱり歩いてゆくだろう

新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ 更に新しい夏を期待して

すべての新しいことを知るために

そして

すべての僕の質問に自ら答えるために

二十億光年の孤独より引用
今日のカフェボンボンの本棚は、『二十億光年の孤独』。 日本を代表する詩人・谷川俊太郎が18歳から19歳の頃に書いたデビュー詩集。みずみずしい詩を夏の限定カバーで。英訳付きニカ国語版でどうぞ。 『二十億光年の孤独』 著:谷 …
出典:https://asajikan.jp/article/102986

自己紹介

私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます

私は工具類が嫌いではありません
また樹木が灌木も含めて大好きですが
それらの名称を覚えるのは苦手です
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています

斜視で乱視で老眼です
家には仏壇も神棚もありませんが
室内に直結の巨大な郵便受けがあります
私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか噓くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私の書く言葉には値段がつくことがあります

きみ

きみはぼくのとなりでねむっている
しゃつがめくれておへそがみえている
ねむってるのではなくてしんでるのだったら
どんなにうれしいだろう
きみはもうじぶんのことしかかんがえていないめで
じっとぼくをみつめることもないし
ぼくのきらいなあべといっしょに
かわへおよぎにいくこともないのだ
きみがそばへくるときみのにおいがして
ぼくはむねがどきどきしてくる

ゆうべゆめのなかでぼくときみは
ふたりっきりでせんそうにいった
おかあさんのこともおとうさんのことも
がっこうのこともわすれていた
ふたりとももうしぬのだとおもった
しんだきみといつまでもいきようとおもった
きみとともだちになんかなりたくない
ぼくはただきみがすきなだけだ

谷川俊太郎の愛:ここ

こういうありきたりなさりげない言葉の中にあるのが、愛なんだろうね。凄いと思いませんか。谷川俊太郎。ここにこそ、愛があります。

どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく

谷川俊太郎の幸せ:ありがとう

コトバの幸せよりナマの幸せ。人の言葉の向こうにある難しさ。人の言葉に表さない力。詩人だからこそ、言葉の限界をそのまま教えてくれる。人の汗と実感と幸せと。谷川俊太郎の幸せの原点は、次の詩の中にある。

空 ありがとう
今日も私の上にいてくれて
曇っていても分かるよ
宇宙へと青くひろがっているのが

花 ありがとう
今日も咲いていてくれて
明日は散ってしまうかもしれない
でも匂いも色ももう私の一部

お母さん ありがとう
私を生んでくれて
口に出すのは照れくさいから
一度っきりしか言わないけれど

でも誰だろう 何だろう
私に私をくれたのは?
限りない世界に向かって私は呟く
私 ありがとう

スヌーピーと谷川俊太郎

スヌーピーやチャーリーブラウンなどのピーナッツ全集の殆どが、谷川俊太郎の訳って、知ってた?

谷川俊太郎の中にある子供の心と大人の心の純粋なあたりが、チャーリーブラウンの漫画の世界とコラボレーションするのは当然と言えば、当然だね。この偉大な二人が出逢うべくして出逢ったのである。だからこそ、とても、良い翻訳になっている。それ自体が詩だね。

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