海辺の家

ショートショート

晴男が家で朝飯を食っている。時間シフトの勤務形態に変えたので、朝の4時半である。一人で自分の2階の部屋から降りてきて、下のキッチンとリビングがくっついた狭い部屋にある冷蔵庫を開けて、納豆とな生卵とご飯を出してきて、いつもの朝食にありついた。冷蔵庫の一番下から、昼食用のパンとゆで卵と魚肉ソーセージとみかんを包んだバンダナ風風呂敷も出した。コーヒーをドリップで淹れて、はちみつを垂らして、自分用の水筒に入れた。ここ半年以上の晴男の朝のルーティーンである。

晴男はこの海の近くにある小さな一軒家から、1時間かけて自転車に乗って仕事場に行く。海が好きだったので15年前に中古の家を購入した。妻の雨夕子もその時は海が好きだったはずだ。中古で競売物件だったので相当安く購入出来たが、築50年は経っていた建物はかなり鉄製の門とか塀とか柱もバルコニーもサビていた。室内の床も壁も白は灰色にくすみ、海風の強い日には家はキシキシと鳴いた。雨が降ると、何故か、家の中の湿り具合が酷かった。週末に、春男はDIYと称して大工作業的なことをした。妻も最初は付き合ってくれた。それでも、家は思うようなものにはならなかったし、言うことを聞かない頑固おやじのように頑なに、古いままだった。秋から冬の部屋の寒さも住んでみて、知ることができたことだった。

都会の街のマンションから一軒家に引っ越した当初、妻も息子の海人も娘の凪もこの海辺の家に住めることを喜んだ。確かに、とても素敵なロケーションだった。目の前が道路で騒音が結構あることを除けば、新鮮なことばかりだった。今も、2階のバルコニーから見れる南側の海の朝焼けと夕焼けは、少しは、感動もする。

引っ越して来てから数年は、良く、目の前の直下の道路を渡って、海辺の砂浜を散歩したし、ボディーボードも、焚火もした。家族も一緒になって遊んだものだ。

子供たちはそれなりに、その頃、幼かった。妻の雨夕子は出逢った頃から活発な女性だったし、その延長で新しい海の周辺環境に喜んでいた。子供たちの学校のママ友もできたりして、積極的に外に出掛けていた。

その時も、今も、海は相変わらず、波を寄せては返していた。晴男の家に向かって、同じ繰り返しを毎日飽きもせずにしていた。

キッカケは単純なことだったかもしれない。人の人生の分岐点なんていうのは、往々にして、どうってことのない発言から起きてしまうものでもある。雨結子にも更年期に差し掛かったこともあったのだろうし、晴男も歳を取り始めていた。子供は中学生になり親の話を嫌がってきていた。よくある時の経過の一つに過ぎないのだが。

ちょうどその頃のことだ。市長選で、何故か、この街の浜が大変浸食されてきていて海岸道路もあと10年もしないうちに影響を受けるのは間違いない。何とか食い止める対策を打たなくてはいけないと、どの候補も言い出したのだった。

晴男は毎日夜明け前のバルコニーからコーヒー片手に海を眺めてきていたが、自分の家の前の海が道路の近くまで来ているという感覚を持ったことはなかった。引っ越してきた5年前と同じ感じだった。

浸食か。温暖化で南極と北極の氷がかなり溶けて海水の量が増えたのか?

雨夕子が言った。

「皆、出て行くみたいよ。この街から。その人達の多くは、私たちと同じように、この海岸道路沿いか近くに家があるのよ」

「え。何故。とても、素敵じゃないか。この海辺は。出て行く必要なんてないだろう。毎朝、毎夕、ちょっとした旅行に来ている気分になれるじゃないか。ここ以外のどこに行くんだい。その人達は。転勤とか仕事の関係でやむなくここを離れなくてはならないのではないのかい。きっと」

「あなたはわかっていないのね」

「え、何を」

「いいのよ。別に」

それから少しして、北の地方の寒い冬に大きな地震と津波があった。その日も、晴男は朝早く起きて、自転車に乗って、海岸道路を1時間以上かけて仕事場に向かった。その日はとてもどんよりとしていて今にでも雨が降りそうな朝だったことは覚えている。午後2時過ぎにとても大きく仕事場のビルがとても大きく揺れた。そして、テレビを見て4時前には自転車で家に向かった。とても暗く黒い空だった。左側に見える海は黒く厚く水嵩が増えたように見えた。そして、風の音が不気味だった。

妻も子供達も家に戻っていた。そして、静かにテレビを見つめていた。誰も何も言わなかった。時折、立ち上がり、彼らはカーテン越しに、黒くどんよりとした吸い込まれそうな海と空を眺めたりもしていた。

それから10年近く経過した。時の流れるのは早い。晴男は、今も、海辺のこの家に住んでいる。海岸道路は昔のままだ。浜辺は少しだけ砂浜が狭くなった感じはある。陽ざしも朝焼けも夕焼けも変わらない。家は古さが古くなっただけだ。ペンキの塗り方は上手くなった気はする。犬を買ったが、買って1年後に、前の道路に飛び出しあっけなく死んでしまってから、動物は飼っていない。

時々、間違えて、リビングで、夕雨子と声に出してしまうこともある。部屋には、それでも、窓を開けると潮風が入ってくるが、そんな言葉もすぐに消えてしまうくらい、何故か、海風は、静かだ。そこが今のこの海辺の家の魅力と言えば魅力だなと、晴男は思うのであった。

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