一人の男が

ショートショート

一人の男が考え始める。考えても、自分の過去の記憶があまりはっきりしない。事故で頭を打ったわけでもないし、突然脳梗塞になったわけでもないのに、記憶のかなりの部分が消えているような気がする。自分は若年性のアルツハイマーにでもなったのか、痴呆症になったのかと思い、知り合いの友人の病院で脳ドッグ検査を受けたが、何も異常は出なかった。友人の医者はこう言った。「仕事のし過ぎでストレスが溜まったんだよ。それで、ぼ~ッとしたのさ」とても、科学的な医者らしくない言葉だった。しかし、この友人のことはしっかり覚えている。俺の高校と大学の友人であるのだ。女にモテて、今も独身を謳歌している男なのだ。俺はと言えば、結婚している。同じ大学でこの医者と俺と彼女は友達だったのだ。確かに。そして、俺は大学を出ると彼女と結婚をした。そして、娘もいる。だが、家に帰っても、何故か、他人の感じがするのだ。妻も娘も。一緒にこれまで家族として過ごしてきた記憶が全くないのだ。ある時からといっても、つい最近であるが、初めて一緒に家族をしているような感じなのだ。赤の他人が演技で家族をしているという感じなのだ。妻も「貴方、近頃、おかしいわよ」というだけで、そそくさとそれも淡々と料理を作り洗濯物をし俺の身の回りの世話をしてくれるだけだ。まるで、家政婦のロボットのようだ。娘も「パパ、おかしいよ」というだけで、それ以上の会話もせずに、部屋にこもってしまう。何なんだろう。違和感があるんだよな。それで妻と話をしようとするのだが、何故か、カワされてしまう。寝る部屋も別な部屋になっている。前は一緒に寝ていたような気もするのだが。仕事はデザイナーなので、独りで事務所を構えている。アシスタントも過去の記憶を覚えていないが、良く仕事はやってくれている。なので、俺の昔からのアシスタントなのだろう。スラッとした細面の美人だ。自分の仕事の手順はしっかり覚えている。俺の作品も自分が作ったものであるという認識もある。仕事先はいつもの人達で、そこも何となく覚えがあるような感じだ。彼らは俺の名前を気安く呼んでくる。長年来の友人かの如くに。「いいよ。ユーちゃんの作品はこうでなくっちゃ」と。でも、何なのか、良く判らないが違和感がある。俺は長い夢でも見ているのだろうか。この全てが。なんか、モヤモヤしている。

そこで、俺は、自分の家と事務所にある自分の過去の書類や写真をひっくり返してみた。俺の俺に関する書類、といっても、卒業文集とか卒業アルバムや小さい頃の写真だが、極端に少なかった。何故だ。俺はしっかりと整理し保存していたはずだ。妻に聞いてみた。俺の昔のアルバムとか知らないか?と。何を言ってるの。貴方は自分でかなりのものを燃やしたじゃない。過去と決別するとか言って。自分で実家に行って、家の庭で燃やしたと貴方は言っていたわよ。私はそんなことは止めなさいと忠告したのに。言い出したら、聞かないんだから。なんだ、それは。そんなことはしていないはずだぞ。結局、残っていたのは、小さい頃の家の縁側で母親とカメラに向かって微笑んでいる写真と大学時代の妻と俺とあの友人の医者とのスリーショットの何枚かの写真しかない。あとは、俺の学校の卒業証書が残っているだけだ。なんだ、これは。俺がそんなことをするか?良く判らんぞ。

それで、俺は、俺の実家に行くことにした。俺の実家はこの街から車で4時間ほどで行ける海辺の鄙びた街だ。俺の若い時のルーツのある場所だ。しかし、その時のことは一切覚えていない。残っていた縁側での母とのツーショットも記憶にない。カーナビがあるので、簡単に実家のある場所には到着できた。しかし、そこにあったのは、マンションで俺の家は跡形もなく無くなっていた。そして、近隣の家々も記憶にはなかった。本当に俺はここで育ったのだろうか。そして、俺は一人っ子で、父と母は俺が大学の時に死んでいるのだ。そこは何となく覚えている。交通事故だったはずだ。近くの小学校と中学校に寄ったが、確かに俺の名前はあったものの、俺のことを覚えている人は誰もおらず、俺はその校舎や学校生活の記憶がない。そして、この地にも何処にも親戚のようなものはなかったような気もする。

俺は、仕方なく、街の南の半島のような場所のはずれ天女が下りたという浜辺の近くにある旅館に泊まった。夕暮れていく穏やかな海と夕焼けが眩しかった。

その頃、医者とその男の妻という女は、いつものホテルで会っていた。

「なんか、感じてきたみたい。自分の記憶があるところからないことがどうもおかしいということを」

「それはしょうがないよ。そもそも記憶なんてものはないのだから。一度は死んだ体に脳内チップを埋めているけど、このチップは、基本的に空白でないと、機能しないのだから。生き返って、俺と君とアイツのセットでの実験で、高校から大学そして今の生活まではそれなりに順調に持ってこれたけど」

「次の課題は、どうやって、仮の自分の生い立ちや15年間を事細かくアイツの頭の中にインプットさせるかということね」

そうだな。記憶を司る脳神経にどう人の前半生を組み込んだら良いかってとこだな。アイツにはまだ頑張ってもらう必要があるな。男は女の髪を優しく撫ぜながら、そう独り言ちた。

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