1973年のピンボール

1973年のピンボール
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初期三部作の二作目

1973年のピンボールを再度読んでみた。永い時間を置いてからの再読だった。昔サ―フェースな部分だけを読んでいたのが良く判った気がした。結構、深いのであった。そして、村上春樹はそのテーマの深さをスタイリッシュな文章で覆っていた。というか、隠していた。

村上春樹の『風の歌を聴け』のデビュー作後の2作目であった、この作品。風の歌を聴けのまさにそのまま延長戦にあるような作品で、当時の学生運動があった流れを汲んでいるようなところもある。ストーリーの全体については、本の内容説明やカスタマーレビューに委ねてしまうけれど、細かいあたりの気になったところを今回は述べてみたい。


1973年のピンボール (講談社文庫)

「電灯のスイッチを切って扉を後ろ手に閉めるまでの長い時間、僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」東京で友人と小さな翻訳事務所を経営する〈僕〉と、大学をやめ故郷の街で長い時間を過ごす〈鼠〉。二人は痛みを抱えながらも、それぞれの儀式で青春に別れを告げる。『風の歌を聴け』から3年後、ひとつの季節の終焉と始まりの予感。「初期三部作」第二作。さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との“僕”の日々。女の温もりに沈む“鼠”の渇き。やがて来る一つの季節の終り―デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感に満ちた第二弾。

内容説明

「ダンス・ダンス・ダンス」までを含めたの4部作の中で次作への橋渡し的な存在であるが、独立して好きな作品だ。平易な文章なので読みやすさはあるけれども、表現や比喩が独特なので人によってはもどかしく、何を言いたいのか分からずにあっさりと読み通してそのまま終わってしまうかもしれない。そういう意味ではわりとリスクの高い文体の作家なのだと今更ながら気づく。読み方にはコツも何もない思うが、個人的には受け身で読むというより、この小説の「僕」のように、何か大きな喪失感に襲われたときの、自分の無意識の精神(頭脳)による作用や対応、あるいはどういった精神の対処で月日をやり過ごし、乗り越えたかなど、過去の自分の経験を映像化して重ねて読むと面白いのではないかと思う。喪失感と格闘しているときの自分の精神構造を目の当たりにしているように思えた。そして「僕」が過去の象徴であるピンボール「スペースシップ」と対面するまでの過程で出てくる「配電盤」や「双子の姉妹」が何のことなのか分かるようでシンパシーを感じた。確かに頭も良く、いつも冷静でスカした「僕」だが、決して特別な人間ではなく、大きな喪失感に襲われれば大して自分たちと変わらず、精神や頭脳の働きはかなり近いのだという発見が嬉しかった。そういった意味では親しみやすく、全体的に重々しさもないが、短い小説のわりにはとても現実的で切実なことが表現されていて、たまに無性に再読したくなる小説である。

カスタマーレビュー

話の幾つかのポイント

見知らぬ土地のこと

見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好き。愛した直子の住んだ土地の駅に僕は降り立ち、犬が来るのを待った。そして、ようやく犬に出会い、電車で家に帰った。だが、彼女が死んだことによる喪失感がそれでなくなったわけではない。それは、土星や金星の話でも同じようなことだ。

ピンボールのこと

ボードに惑星と宇宙船の描かれた3フリッパーのスペースシップというピンボール・マシン。

1970年、鼠と僕がジェイズバーでビールを飲み続けていたころ、鼠と僕はピンボールに狂っていた。そう、あのジェイズバーとゲーム・センターの片隅でだ。そして、どんな遊びにも終わる時が来る。


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葬り去られたピンボール・マシン達を探す。直子の死霊と話すために。直子の死んだ理由を知るために。

双子

僕のアパートには双子の女の子が住んでいた。双子を見わける方法はたったひとつしかなかった。彼女たちが着ているトレーナー・シャツの番号だけだ。208と209。彼女たちは、僕の出口の道しるべになってくれるのか?

入口と出口

村上春樹の小説の特徴であるこのメタファーが大事。入口と出口とか、表と裏とか。このピンボールでは、入口と出口が時空間の扉になっている。死んだ直子の魂に会えるキイなのだ。

何処まで行けば僕は僕自身の場所を見つけることができるのか?僕は時代遅れになっていると感じている。古い配電盤を新しいのに交換するように、僕は直子のことを忘れ新しい自分になることができるのか?鼠と僕は古いずっと昔に死んでしまった時間に取りつかれていた。

鼠の恋愛ストーリーがある。女との。しかし、鼠は、全てが皆消えてしまったという思いがあり、女とも別れる。様々な夢があり哀しみがあり様々な約束があったが。女と別れ、そして、ジェイにも別れを告げる。「25年間生きてきたが、何ひとつ身につけられなかった」と。ジェイは、「45年生きてきたがひとつのことしかわからなかった。努力すれば何かを学べる」と答える。鼠はそれはわかると言いつつ、否定の言葉を口にせず飲みこんだ。そして、4日後に死んだ。

救い

この小説には、救いがあったのだろうか?そこにあるのは、僕の周りにある多くの死と僕がこれからも生きていくと事実だけである。果たして、初期3部作の最後『羊をめぐる冒険』で、僕への救いが生じたのか。生きていく意味が発見できたのか?

1973 PINBALL 【講談社英語文庫】

ちなみに、英語を勉強するなら、是非、この文庫がお薦め。とても、ハードボイルドに日本語を訳しているいるねぇ。かなり、良いじゃん。

「ごくわずかの可能性」 an outside chance
「彼の心を奪う」 claim his heart
「死を予感した象のように」 like an elephant that knew its time had come

カスタマーレビュー

とかね。こういう言葉の翻訳こそが、本当の英語との付き合い方と言えるね。


1973年のピンボール 1973 PINBALL 【講談社英語文庫】

庄司薫

やはり、庄司薫の再登場を阻んだのは、この村上春樹だろうね。同じ青春文学で同様に軽妙洒脱な文章としても、村上春樹の意外なほどのテーマの重さは庄司薫の隠し本質テーマを超えたということだろうかね。推測のひとつに過ぎないけれどね。

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