今、何故、金子みすゞの詩が注目を集めているのかというと、それは「自分」という存在は自分以外の誰かがいて、初めて成り立っているという基本的なことを思い出させてくれるからなのだ。
人間を温かに見つめるみすゞの詩の原点はどこにあるのかと言えば、それは自他一如、みすゞの言葉を借りれば「あなたと私」という眼差しです。私たちは誰しも自分が人間だという認識を持って生まれてきたわけではありません。両親や周囲の人たちの姿を通して、初めて自分は人間だということを認識できるのです。
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わたしと小鳥と鈴と
わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。
みんなをすきに
わたしはすきになりたいな、
何でもかんでもみいんな。
ねぎも、トマトも、おさかなも、
のこらずすきになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、
かあさまがおつくりになったもの。
わたしはすきになりたいな、
だれでもかれでもみいんな。
お医者さんでも、からすでも、
のこらずすきになりたいな。
世界のものはみィんな、
神さまがおつくりになったもの。
いぬ
うちのだりあのさいた日に、 酒屋のクロは死にました。
おもてであそぶわたしらを、 いつでも、おこるおばさんが、
おろおろないておりました。
その日、学校(がっこ)でそのことを、
おもしろそうに 話してて、
ふっとさみしくなりました。
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
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