中原中也への思慕を何面まで書いていこうか。今回は、その中原中也の第2回目で、『B面』です。特に、恋愛編ですかね。
中原中也の詩をみるたびに読むたびに、新しいことを発見する。そして、そこに純粋さや若さを感じられる。昔の自分に戻れてしまうような気がして、不思議だ。まだ、自分の心が素朴だったころ、こんな想いを自分は秘めていただろうか。こんなにクタクタにクタビレテきても、俺の中に、その想いが残っているだろうか?
恋とか愛とか、そんな感じで、そこはかとなく、そのあたりに並べてみませうか?風に揺れながら。
音楽が、リズムが、夢が、後悔が、その言葉の中に流れている。
みちこ
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしいて
竝(なら)びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろいぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆(ほかたほ)
沖ゆく舟にみとれたる。
またその顙(ぬか)のうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡(ごすい)の夢をさまされし
牡牛(おうし)のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯(ふ)しぬ。
しどけなき、なれが頸(うなじ)は虹にして
ちからなき、嬰児(みどりご)ごとき腕(かいな)して
絃(いと)うたあわせはやきふし、なれの踊れば、
海原(うなばら)はなみだぐましき金にして夕陽をたたえ
沖つ瀬は、いよとおく、かしこしずかにうるおえる
空になん、汝(な)の息絶(た)ゆるとわれはながめぬ。
想像力の悲歌
恋を知らない
街上(がいじょう)の
笑い者なる爺(じい)やんは
赤ちゃけた
麦藁帽(むぎわらぼう)をアミダにかぶり
ハッハッハッ
「夢魔(むま)」てえことがあるものか
その日蝶々の落ちるのを
夕の風がみていました
思いのほかでありました
恋だけは――恋だけは
そのうすいくちびると
そのうすいくちびると、
そのほそい声とは
食べるによろしい。
薄荷(はっか)のように結晶してはいないけれど、
結締組織(けっていそしき)をしてはいるけれど、
食べるによろしい。
しかし、食べることは誰にも出来るけれど、
食べだしてからは六ヶ敷(むつかし)い。
味わうことは六ヶ敷い、……
黎明(あけぼの)は心を飛翔(ひしょう)させ、
美食をすべてキナくさく思わせ、
人の愛さえ五月蝿(うるさ)く思わせ、――
それでもそのうすいくちびるとそのほそい声とは、
食べるによろしい。――ああ、よろしい!
含 羞(はじらい)
なにゆえに こころかくは羞(は)じらう
秋 風白き日の山かげなりき
椎(しい)の枯葉の落窪(おちくぼ)に
幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり
枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの
空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ
おりしもかなた野のうえは
あすとらかんのあわい縫(ぬ)う 古代の象の夢なりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちいたり
その日 その幹の隙(ひま) 睦(むつ)みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは
わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう……
おまえが花のように
おまえが花のように
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のように
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとおって
日曜の朝陽を受けて、歩んで来るのが、
僕にみえだすと僕は大変、
狂気のようになるのだった
それから僕等磧(かわら)に坐って
話をするのであったっけが
思えば僕は一度だって
素直な態度をしたことはなかった
何時(いつ)でもおまえを小突(こづ)いてみたり
いたずらばっかりするのだったが
今でもあの時僕らが坐った
磧の石は、あのままだろうか
草も今でも生えていようか
誰か、それを知ってるものぞ!
おまえはその後どこに行ったか
おまえは今頃どうしているか
僕は何にも知りはしないぞ
そんなことって、あるでしょうかだ
そんなことってあってもなくても
おまえは今では赤の他人
何処(どこ)で誰に笑っているやら
今も香水つけているやら
恋の後悔
正直(しょうじき)過ぎては不可(いけ)ません
親切過ぎては不可ません
女を御覧なさい
正直過ぎ親切過ぎて
男を何時(いつ)も苦しめます
だが女から
正直にみえ親切にみえた男は
最も偉いエゴイストでした
思想と行為が弾劾(だんがい)し合い
知情意(ちじょうい)の三分法がウソになり
カンテラの灯と酒宴との間に
人の心がさ迷います
ああ恋が形とならない前
その時失恋をしとけばよかったのです
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