黒い服の男

ショートショート

その男はいつでもどこでも黒い服しか着なかった。それは学生時代からそうだった。そして、無口だった。僕は、彼を大学の前期のキャンパスで見かけた時から何故か気になって、しょうがなかった。

周りの友人から何から大学の教養課程にいる20歳前の男どもも女どもも、ほとんどの連中がうるさかったし、陽気だった。それは、あたかも、さくら舞い散る春が夏になっても冬になっても続いているような明るさであった。どうして、ここまで、明るくいれるのだろうかと不思議だった。だが、普通は、そんなものかもしれない。あの当時は。

男は痩せていた。そして背はそれなりに高かった。髪の毛は本当に黒くて、少しくせ毛で肩まで伸ばしていた。黒いボストン眼鏡をかけていて、目は柔和であった。だが、その眼はいつでも何かを考えているようだった。とても思索するような探求するような深い感じがあったのだ。上手く説明できないけれど。男の歩き方はとても速足だった。そして、その細く長い脚の動きもとても気持ちの良いものだった。何故か。僕は、そういう彼に魅了されていたのだ。観た瞬間に。多分。

それは、恋愛とか友情とか、そういう次元の話ではなく、自分が憧れていた自分の成りたかった男がそこにいたことに尽きるのであるが。

貴方もそういうことがあるのだろうか?自分が思い描いている自分の好きな人間像を見かけたことが。僕は、生まれて初めて、その男に自分の理想も見出したのかもしれない。随分と理想の外形的であるが、理想の人間像を見つけたわけだ。

こういう発見の驚き。僕は、その時、古い大正時代に作られたのではないかと思えるような文科系クラブの部室が10個入っている建物の軋む窓から、生協の方を眺めていたのだ。何気とはなく。とても、穏やかな昼間だったのである。晴天の青い空で雲一つもなく。

それから、何回か、彼を僕はキャンパスの中で見つけることが出来た。そして、いつも、彼は一人だった。とても、独りが似合っていた。

僕は彼のように振る舞いたかったのだ。とても無口で静かで痩せていて、深く遠い眼差しをしている彼のようになりたかったのだ。随分と、昔から。それでも、そのカタチを僕は今まで知ることが出来なかった。ここで、この時に、ようやく、見つけたのだ。

当然のことながら、僕は彼と会話を交わしていない。多分、これからも話をすることはないだろう。僕と彼の間に、何らかの交流が起こることは確実にないだろう。しかし、とても、とても、大事な存在なのである。

普通の人なら多分ここで、二人は結局会話を交わし何らかの発展があるのだなと思うところだろうが、僕の予想通り、二人は大学の4年間の間、一切、交流することはなかったのである。つまり、そのまま、二人とも、関係が全くないままに、共に社会人になったのである。

それだけの話。何とも、面白くない話。しかし、現実の世の中っていうのは、普通、そうなんじゃないだろうか。人生というのは、普通はこんな感じなのである。

黒い服の僕の理想の彼が、社会人になってから、どうなったのかは当然知りません。人というものは出会える人が限られているのだけれど、出会ったり見つけても、何もこちらから動かなければ、そのまま平行線のまま、一生交わることもありません。そこが面白いところでもあるのですが。

こんな話かよ。というところに、この話のミソがあるのです。長い年月を経て、その時のことを思い出すことがある。それっていうのは、何故なんだろうかと、近頃、想うことが多いのです。失われたような時間のことを。あの時、もし違う方向に行っていたらと。

生きていること、生きていくことは、その人なりの道が作られている。その道が交錯する人達とだけ、自分は関係していく。今の世界は、その道にSNSも入ってくるので、その道が多くあるような気もする。しかし、やはり、深く関わっていく人達というのは現実に直接出会った人達であるのは今も昔も変わらないのではなかろうか。

自分の理想のように思える人を外側だけから僕は見つけた。ただ、それだけだ。社会人になり、頭のどこかにあったのだろうけど、忘れ去られ、今に至っている。その後、自分の理想の外形的な人物に出会ったことはない。自分が純粋でなくなったことも大きいのだろうが。

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