島本さん
僕の幼馴染の島本さんの家には新型のステレオ装置があって、二人でレコードを聴くのが楽しかった。
彼女の父親のコレクションの中でいちばん愛好したのがリストのピアノ・コンチェルトだった。
そして、ナット・キング・コールの「国境の南」も好きだった。
僕はいつも、不思議な響きのある国境の南には何があるのかを想い馳せた。
そして、いつのまにか、僕は島本さんと別れた。
僕とイズミ
高校生になった僕は、イズミというガールフレンドを持った。
僕は孤独で傲慢な少年になっていた。
彼女は夏の終わりには、シアサッカーのワンピースを着ていた。
僕の頭は彼女とセックスをしたいことで一杯だった。コンドームを入手しないといけないと真剣に考えた。
そこに至ろうとして、僕は彼女を抱き、何度もキスをした。
しかし、その時、僕はわかっていなかった。自分がいつか誰かを、とりかえしがつかないくらい深く傷つけるかもしれないことが。
僕は彼女に肉体を拒絶され、僕が最初に経験したのは、彼女の仲の良い従姉だった。
そして、このことがイズミに露見し、イズミは損なわれた。そして、僕は上京する新幹線の中で、1つの基本的事実を体得する。
僕という人間は究極的に悪をなしうるということを。
有紀子と僕
僕は大学生になり、政治の季節の中で面白くもない授業に出て、教科書の会社に就職した。
それから有紀子と結婚するまでの間に1つの奇妙な事件に出くわす。
年末の渋谷で僕は島本さんにそっくりの脚の引きずり方をする女性を見かける。そして、僕は彼女を追いかける。
彼女は、赤い長めのオーバーコートを着て、黒いエナメルのハンドバッグを小わきに抱えていた。
左手の手首には、ブレスレットのかたちをした銀色の腕時計がはまっていた。
僕のバー
三十になって、僕は結婚した。そして、妻の父が持っている青山のビルの地下でジャズバーをすることになる。
早くして成功し、青山に4LDKのマンションを買い、BMW320と赤いジープ・チェロキーを購入した。
バーは「ブルータス」の「東京バー・ガイド」にも載るようになった。
そんな頃、イズミの従姉が死んだことの葉書を受け取り、友人からイズミが豊橋に一人でいて可愛くなくなったという話を聞く。
それから少し経ち、僕のバーでダイキリを飲んでいる島本さんに出会う。
僕はアルマーニのネクタイとシャツで、ソプラニ・ウォーモのスーツを着ていた。
遠くの綺麗な冷たい川
島本さんは、僕の店「ロビンズ・ネスト」にその後来なくなった。
しかし、かなりの時が経過した2月の凍てつく夜に突然来て、川の話をしてくるのだった。
綺麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、流れが早くて、すぐに海に流れ込む川を知っているかと。
そして、二人で石川県の川に行くことになるのだ。
それから、何回か島本さんに会い話をし、自分の満ち足りた生活すすらも必要ではないような気持に僕はなっていく。
ときどき、泣くことができればらくになれるんだろうなと思える時もあった。でも、何のために泣けばいいのかがわからなかった。誰のために泣けばいいのかわからなかった。他人のために泣くには僕はあまりにも身勝手な人間に過ぎたし、自分のために泣くにはもう年を取り過ぎていた。
国境の西、太陽の南 村上春樹
ずっと逢えなかった島本さんが静かな雨の降る夜に、ロビンズ・ネストにやってきた。
バーでは、「スタークロスト・ラヴァーズ」の演奏がかかっている。
そして、島本さんは昔のナット・キング・コールのレコードを僕にプレゼントする。
その後、二人で箱根の別荘に行く。そこで二人は。しかし、翌朝、島本さんは僕の前から消えてしまった。
多分、永遠に。
青山に戻り、顔の表情のないイズミに出会い、妻有紀子に最終的に彼女のことを話し、僕ハジメは自分がどこまでいっても僕でしかないことを痛感するのだった。
ひとりの不完全な人間だと自覚するのだ。
どんなに新しいペルソナを目指しても、そこには無理があることを知るのだ。
島本さんと一緒に死ねなかったように。
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