ポッド3:ショートショート

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ショートショート

ポッド3

ミューズの聴きなれた優しい声で、目が覚めた。

ポッドから出て白神山地の奥深い森の中で生活を続けて、既に1年を過ぎた。体の状態は、冬の凍えるような寒さの時の風邪とかいう昔のウィルスに感染し異常な高熱が続き意識を失いかけた1週間以外は、順調なものだった。

こんな場所にまで、ウィルスが運ばれていることにむしろ驚愕した。見渡す限り、自然のままの世界なのに、そこに都市の悪意が届いていたのだ。

大方、鳥に運ばれてきたのだろうが。人間のウィルスが動物に転移し、そこからまた人に転移するというあり得ないような現象が起きている。

陽が昇る数時間前に起き、陽が沈むと寝る。起きてから、朝の6時まではこの時代の毎日の情報をキチンと入手した。殆どがミューズの入手したラジオ・テレビ・ネットからのものだった。

起きて水を飲み、情報入手の後は、朝食を取った。最初は、ポッドに常備されていた圧縮系食事栄養素を使っていたが、食事後の散策を中心にしたフィットネスの時に、食べ物の狩りや採集をすることに変わっていった。それは、ミューズの指示にはないことであった。

これがなかなか面白かった。歩くことに困難さが伴う500年後のヒトにとって、2年の月日をかけて体の調整をしていくのに一番大事なことがこの足の機能化であった。

当初は歩行補助機を足につけて歩く練習をしていたが、今では、それを外して、一日に30キロは歩けるところまで来ている。これは飛躍的な改善だった。

ミューズの言った「ちょっとしたサバイバル」は彼の肉体と精神に良い効果を与えてくれていた。

地球の空気の構成も500年前と500年後では、違う。放射能が少なくなった500年後の地上は殺伐とした砂漠のような砂だらけの土地だったけど、500年前のシラカミさんは戦争が始まっているのにも関らず、綺麗な空気構成であった。

当然のように、森は森で、山は山で、樹木は樹木で、水は流れ、霧は生まれ、陽ざしもこれでもかというくらいに降り注いだ。

限定された茶色と黒と灰色しかなかった色だけではない。ここでは、昔の絵本にあった色なるもの以上に、無数のあらゆる色が煌めいていた。

その眩さだけでも、朝目覚めることが幸せであった。このまま、ここに居たいと切に感じた。通信が途絶えているので、彼は、気楽になれた。

毎夕、寝る前にミューズに向かって、報告を読み上げているが、ミューズは、今のところ、彼の反マシーン的な心象に気づいていない。

火は消さないようにしている。炎がある地上生活。500年後の世界にはあり得ないことだ。そして、空気はうまい。

夜に向かうにつれ、動物の遠吠えが聞こえ始めてくる。とりあえず、ポッドの場所から50メートルの円形でバリアを張っているので、彼らが近づくことは不可能だ。近頃は、バリアを解除して良いのではないかとまで思っている。

朝から昼にかけて、バリアの外を歩くものの、動物と接触するのはあまりない。彼らが警戒しているのだろう。そして、不思議と虫が少なかった。

既に、都市での戦争の影響か変調がこの山奥深いところまで来ている証拠なのだろうか?

それでも、彼は狩りをした。500年前の動物を狩る手法をかなり勉強した。5Dプリンターで弓矢も槍もライフルも各種のワナも作った。

最初に捕まえたのは、鹿だった。それも若い雄鹿だった。初めての解体もおこなった。そして、肉はステーキとやらにしたし、残ったものは時間をかけて燻製にもしていった。ナイフも重要だったが、やはり、火そのものが貴重なものであることを更に知った。

科学的で化学的な調合によって作られてきた500年後の食料。そこにあるのは自然ではなく、分子式だけだった。原始的な今のような食料確保などはない世界だ。そこにあれば良いのは、食料の原材料になる動物と植物の細胞の冷凍保存されたものだけだ。そのDNAさえあれば、いくらでもレプリカントできる。そして、それはあらゆる調合式によってヒトに必要な栄養素として簡単に摂取できるものに変わっていったのだ。長い地下生活の中で人は料理なる方法も捨ててきたのだ。

時間のかかる狩りと料理と食事。ちょっとしたサバイバルは、500年を遡った彼には、大いなる癒しを与えてくれていたようだった。

自分のミッションを忘れそうであった。このシラカミさんから下界に降りて、俺の祖先に遭わなくてはならない。彼を探さなくてはならない。この世界への体の調整はほぼ88%のところまで順調に進んでいる。

言葉というものを発する勉強も、歩き疲れた午後のたゆとうような時間の中で、毎日練習をした。

ミューズに教えられる勉強の中で好きだったのは、この時代の音楽を一緒に歌うことだった。文法は似通っているので、頭の中の言葉を音にすることに少しずつ慣れていけば、楽しいものだった。

感傷的な歌もあったし、激情的な歌もあった。

下界は、どんなにか、ヒトの言葉や音楽や会話の多いことだろうか。想像するに、その世界の中を上手に歩けるのか、少し不安にはなった。

そして、夕の食事が終わり床に入り眠るまで、最初は自分の脳とミューズを直結して、画像として、この時代の書物を見ていた。

今は、ペーパーに落とされた本なるものを読んでいる。それは目の訓練のためでもある。これも音楽につぎ、楽しい勉強であった。

特に好きだったのは、SF小説というジャンルであった。特に未来創造小説が面白かった。だが、500年後の世界を完璧に言い当てたような小説にあったことはない。核で地上が大変な砂塵に変わっていくあたりまでは当たってはいたが、その後が違う。

どちらにせよ、500年前の今。崩れ始めようとしている世界の今は、とても刺激的なものであることは間違いなかった。

彼は、自分のこれからが覚束なかったが、どこかに嬉しいという感情が芽生えていた。

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