村上春樹のエッセイでも、木山捷平の詩に触れている。気取った言葉など使っていないのに、その時の情景や心持ちがすっと目のまえに浮かんでくる詩だと。
昭和の詩。簡潔で諧謔的な感じもあって、面白いね。
なんだろうね。木山捷平。短い詩の中に、とても、深い気持ちが入っている。
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辛抱
ほんとのところは
この世にゐなくてもいいんだけれど
葬式代がないから
辛抱してゐるやうなものである。
いやぁ
ずゐぶん
待たせるなあ。
五十年
濡縁におき忘れた下駄に雨がふつてゐるやうな
どうせ濡れだしたものならもつと濡らしておいてやれと言ふやうな
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた
遠景
草原の上に腰を下ろして
幼い少女が
髪の毛を風になびかせながら
むしんに絵を描いていた。
私はそっと近よって
のぞいて見たが
やたらに青いものをぬりつけているばかりで
何をかいているのか皆目(かいもく)わからなかった
そこで私はたづねてみた。
……どこを描いているの?
少女はにっこりと微笑して答えてくれた。
……ずっと向こうの山と空よ。
だがやっぱり
私にはとてもわからない
ただやたらに青いばかりの絵であった。
大根
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友達が土産にくれた大根を
すぐ食ふのもをしいので
何もない部屋をかざつた。
おれの部屋には
それが又とてもよく似合つた。
別な友達がやつて来て
「いいな」「いいな」と言うて帰つた。
ふるさと
五月!
ふるさとへ帰りたいのう。
ふるさとにかへって
わらびがとりに行きたいのう。
わらびをとりに行つて
谷川のほとりで
身内にいつぱい山気を感じながら
ウンコをたれて見たいのう。
ウンコたれながら
チチッ チチッ となく
山の小鳥がききたいのう
晩春
尋ねて来たのに
主人は不在である。
主婦も不在である。
新緑の縁側に
茶碗が二つ置いてある
――では失敬、
ぼくは待つてゐるわけにはいかないのだ。
秋
新しい下駄を買ったからと
ひょっこり友達が訪ねてきた。
私は丁度ひげを剃り終へたところであった。
二人は郊外へ
秋をけりけり歩いて行った。
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