今は、ゆっくりと体を休めてほしい。多分、相当に仕事が入っていて、肉体は疲れていたのだろう。Virusは嫌な奴で、一生懸命に頑張っている人を襲う。
人の心にも悪しきVirusのあることが、時として、ある。
気にするな。
横臥し、空手の夢でもみていてくれれば、と思う。
師匠
師匠、どうも俗世というものがあまり面白くありませぬ。
ー どう面白くないのじゃ。
人が多く、色々なモノに溢れ、ごちゃごちゃしています。
ー おぬし、そこが良くて、ここを抜け出したのでなかったかの?
ー 喧騒におりて人に触れねば、修行した結果を出せぬと申したのはお主ではなかったか?
・・・・・。
ー ヒトの気持ちとやらは、どうであった?消えてから、これだけの時間、下界で暮らしてきたんじゃ。俗世が面白くないという一言では解せぬ、の。
・・・・・。
森の奥深くにある師匠の山小屋には、秋の夕暮れが射し始めていた。
この世界が良いのです。空気が綺麗だし、ヒトもおりませぬ。森の樹木も動物も陽も雨も風も、とても、自分に馴染みます。
ー たった、二人じゃぞ。ワシとおぬしのたった二人じゃ。おぬしが歩き出した幼子の頃から、空手と書物と瞑想に明け暮れた。
ー 親の愛も人との交流も知らずに、おぬしは修練を重ねていたのだ。だから、下界に降りたい気持ちは当然のことよ。わしは成長したのだとむしろ安心した。遅すぎたくらいじゃ。
・・・・・。
ー 拳を使いたい時が多くあったのじゃろう?
いえ。拳法は封印しておりました。師匠との約束通り。
ー ヒトの世界とは不思議なものであったろう。特に、心が。
はい。師匠から学んだヒトの学問以上に、難解でありました。
皆、どこかに、別の邪まなる心を抱えているようでした。時として、人を憎みます。人を貶めようとします。不思議でした。
ー そんな輩もおるかもしれぬな。心を失った者が、の。しかし、多くのヒトはそこまで落ちてはおらぬよ。そうでない美しい心の持ち主も、おったのではないか。
・・・・・。
劇団員になった。師匠からの命令だった。劇団の長が昔師匠のお弟子さんであったらしい。歳を取っているが、眼差しは鋭かった。師匠の達筆な書を手渡すと、分かったと言った。独りで今まで山にな・・・。
住み込みで、倉庫の片隅に部屋をもらった。掃除の仕事をして、劇団員の練習にも参加した。
人と交流したことがないので、最初は落ち着かなかった。師匠に毎日教わった心身統一の技も効果がなかった。それにも、驚いた。
掃除も役者の肉体運動も山の生活に比べれば、まことに楽だった。だが、言葉を発することや演技をするということが、苦痛だった。
そして、男の劇団員はまだしも、女の劇団員は苦手であった。初めて見る現実の女性であったから。
ー 女性はどうであった?
はい?
ー 不思議なものであったじゃろう。お主にすれば。
はい。柔らかく、優しきものでありました。師匠から教わり書物で読み絵を見ておりましたが、実際の女性なるものは思っていた以上に不思議なものでありました。
ー お主の顔や所作を垣間見れば、女達も放っておかなかったであろう。
師匠は珍しく笑った。
何故、そんなことまで解るのですか?
ー その女達の中にも、多分、心の綺麗なものがおったろうに。
・・・・。
ー 図星じゃの。
目立たぬようにしていたが、女劇団員は自分のことを知ろうと寄ってきた。男達の何人かはそれが面白くないようでもあった。ちょっとした嫌がらせも受けた。だが、体への暴力など、どうということもなかった。その心が、哀しかっただけだ。
ー そこが修行なのだよ。お主。
ー お主の気持ちに寄り添ってくれた女子がいたろうに。多分のう。
・・・・。
多くを語らぬが、自分を支えてくれていた女性がいる。何も勝手が分からない俗世での生き方を少しづつ人に知られぬように隠れて教えてくれた。瞳がおぼろ月の如く麗しかった。
ー 逃げてきたのではないであろうな。男らしくもなく。
そうなのだ。胸が痛くなったのだ。今まで感じたことのないものだった。対処に困ったのだ。そして、今、ここにいる。
ー 塵にまみれよ。多くの心と恥を知れ。そして、自分の中にある真直ぐな心と技を信じよ。誇りを失うな。
ー 心というものはな。恐ろしい武器なのだ。多分、お主の前に現れた女性は、真直ぐな強い心を持っていたであろう。そのような心をお主も持てたら、お主の拳は更に強くなる。
ー 言いたい奴には言わせておけ。お主の拳に、我が空手道の全てを刻んである。世俗にまみれ、静かに生き、穏やかに心の道を体得せよ。
夕と夜の狭間の一瞬の明るさの中、一輪の赤い花が見えた。
明日、山を下りよう。
そして、待っている。
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