萬鉄五郎という画家。知っている人は少ないかもしれないが、明治・大正時代のアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として彼の功績は大きい。そして、彼の孤独な内面をえぐる作品を少しだけでも観賞しようではないか。
略歴
Wikipediaで略歴紹介。前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者というレッテルが一番彼に向いているかもしれない。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 – 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
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自画像ヤバし
萬鉄五郎はとにかく、よく自画像を描いている。そして、それは、一様に、暗い。大正8年には、過労と睡眠不足から強度の神経衰弱症となり、神奈川県茅ヶ崎へ転居療養しているが、昭和になると同時に死んだ彼の精神が反映されていたのだろうか。
赤い目の自画像
雲のある自画像
口髭のある自画像
自画像(洲之内コレクション)
現代画廊経営者であった洲之内徹氏は、萬鉄五郎の自画像の魅力を、彼のイメージの孤独の深さであり、自分には見えているのに人には見えないもの、言わずにいられないが言っても誰にもわからないこと、選ばれた者の恍惚と不安を描いた作品であるとまで、言っている。
持たれて立つ人
晩年に描いた作品。日本キュビズムの代表作とも言われている。
湘南風景
結核による肺炎で死去する1年前に描いた最後の作品か。茅ケ崎の風景を描写している。
紅葉風景
花巻市萬鉄五郎美術館のコメントは以下の通り。
燃えるような朱色に染まった紅葉が印象的な絵画《紅葉風景》は萬鉄五郎が秋真っ盛りのふるさとの景色を描いたものです。山際を涼しげな瀬音を立てて流れている川は、遠野から花巻へ向かい北上川で合流する猿ヶ石川です。画面右側の岩肌があらわに切り落とされた道路は現在の国道283号で、この岩陰の奥には発電所があります。花巻と宮守の境に程近いこの地は、古くから「アツラク」や「アテラク」と呼ばれ、誰もが知る有名な場所だったといわれています。画面右下にサインがあり、大正15(1926)年に描いたと記されていますが、この年の秋に郷里を訪れたのではなく、描きためたスケッチを基に制作したものと思われます。萬は、大正3(1914)年から一年半、郷里で制作に明け暮れました。この時、スケッチ旅行と称し地元の絵描き仲間と連れだってこの地を何度か訪れ、多くのスケッチを残しています。この作品と全く同じ構図で描いた油彩画が、桜地人館(桜町)に展示されています。これも萬の作品ですが、大正4(1915)年頃に描かれたもので、春から夏にかけての日差しの強さが感じられる風景となっています。その11年後、郷愁の念から再びこの地を描いたのかもしれません。
裸体美人
萬鉄五郎の代名詞であるのは、これ。「裸体美人」。
現在は東京国立近代美術館に所蔵されており、国の重要文化財に指定されています。 発表から100年以上経った現代においても存在感の際立つ作品です。
美人にはみえないが味があり、その肉欲的な存在が大地に根ざしているような女性の本質を抉り取っているような絵なのだ。多分。
萬鉄五郎紹介BOOK
大正アヴァンギャルドの雄、鉄人の復活!万鉄五郎―みずから鉄人と名乗った男。彼は近・現代の架橋、混沌の大正画壇において、つねに前衛の尖端を走り続けた。昭和の幕開けとともに不幸にして病いのために急逝した画家が、生前に遺した身を切るような言葉の数々。そして洋の東西を横断して進展した独自な作品群。どこまでも己に誠実に生きた者のみに生じる精神の闘いを追って、今、鉄人の魅力の全貌を明らかにする。
萬鐵五郎を辿って
剥き出された赤土と桑園に燃える緑。多面性を持つ画家、岩手・土沢訛の万鉄五郎こと”テッツァン”を辿り辿る同郷の美術家村上善男が、土沢と茅ヶ崎に聴いた「風景」の発する声。巻末に万鉄五郎を巡る対談など。
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