朝起きたら、突然に由里子が僕を見下ろしながら、とても大きな声を上げた。
「ここは大変だから。いい、直ぐに出掛けなくてはいけないのよ」
うん。夢か。まだ、僕の眼は開いていない。
彼女はすっかり着替えている。それも、山にでも行くような格好だ。黄色のアノラックにスポーティーなブルーのパンツ。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
前日は久しぶりに街で酒を友人と飲んで、それでもそれほど遅くならずに家に帰ってきたはずだ。そして、キッチンで妻とお茶を飲んでそれなりに友達の話をしてから寝たのではなかったか?どうしたんだ?突然。
由里子は慌ただしく、俺のバックパックに荷物を詰め込んでいる。彼女の荷物はボストンバック2つ既に満杯になっている。
「車はガソリンが入っている?直ぐ動くよね。ならば、段ボールにもう少し食料系の関係や電灯やテントや何日間か外で寝泊まりできるものも詰め込もうね」
真剣そうに自問自答する由里子を見つめた。夢じゃない。覚醒してきた。真面目に物事を進めようとする由里子の緊張がピークに達した時の独り言の連発だ。これはまずい。何かが発生している。進行しているのは間違いない。自分が眠っている間に、最悪なことが起きたのに違いない。
「由里子。落ち着いてくれ。俺は起きたよ。俺の話を聞けるかい。聞いてくれるかい」
「すぐに着替えて。いつでも動けるラフな格好に。そして、マスクもたくさん用意して」
わかった。用意する。僕は立ち上がり、日頃キャンプや軽い登山で使う服に着替えた。そして、自分の部屋にある自分にとって重要なモノを段ボール箱に入れた。
何が起こっているのだろう。外は静かで、初冬の真っ暗な明け方のはずだ。
金、カード、マイナンバー、眼鏡数個、ポール・オースターの文庫本、パソコン、電動髭剃り、スマホ、印鑑、財布、小銭入れ、下着、洋服、ダウンジャケット。チマチマしたものしかない。
「早く。もう行くわよ。時間がないの。今あるモノでしょうがないから、直ぐにここを出るわよ。いい。」ドアの前で由里子が叫んでいる。
「わかった。今行くよ」おれは段ボールを抱えて、戸口に向かった。
車は、真っ暗な中、南に向けて走り出した。僕の家は小高い丘の上の方にあって、とても見晴らしの良いところにある。下側にある街の方を見ると、多くの自動車や家の灯りが煌々と光り輝いていた。やはり、何かあったのだ。皆、南の方向に向かっている感じだ。それは長い火山の溶岩の流れのように遠くまで、橙色で繋がっていた。
「本当に何かあったんだ。なあ、由里子。何があったか教えてくれないか。」僕はハンドルを握りながら、助手席で眠り始めている由里子に声をかけた。
「歯、磨いた?臭いわよ。口。私も良く判らないの。」
え?え?何だよ。この大変な状態の時に。
「とにかく、私、寝て少し経ってから喉が渇て起きてしまったのよ。そして、水を飲んだ後にスマホを見たのよ。そうしたら、緊急事態発生っていう言葉だらけなの。そして、直ぐに体1つでも良いから南に逃げよということなのよ。それで、テレビをつけたのだけど、何も、映らない。ラジオも駄目。パソコンも。スマホだけなのよ。それで外に出て街を見たら、灯りが煌々とついて、自動車が南に向かっているのよ。それで、今、こうなっているのよ。」
「政府からの情報も市町村からの話も何もないんだ。一番最初に最後の情報がスマホだけって。そんなことあるの。」
「でも、皆、移動しているのよ。それも息せき立ったように。貴方も自分のスマホを見て」
僕はスマホを開けて見た。確かにTwitterもラインも緊急事態発生ばかりだ。そして、今直ぐにでも南に向かえと言っている。詳細なことはあまりないのだが、どうも北の方から何かが空気に乗ってくるような話なのだ。霧?雲?毒ガス?核?
「これって、ガセネタじゃないの?」
「じゃあ、何故、皆列になって南に向かっているのよ。政府の発表がないのよ。既に東京はその北から来たという何かに汚染されて皆死んだんじゃないの。だからニュースもないし何もないの。自分で自分を助けるしかないのよ」
家並みが増えてきたが、どの家も真っ暗でドアが開いていて、車は1台もなかった。人などいる気配がなかった。置き忘れられた犬が遠吠えをしていた。派出所も真っ暗だった。
「友達とかに連絡したの。」
「繋がらないの。誰一人。」
自分もやってみた。ハンドルを握りながら、左手で。だが、誰とも連絡が出来なかった。
「どういうことなんだ。どうなっているんだ。」
「きっと、誰か凄い国か人に乗っ取られたのよ。日本は。」
その頃、かなり遥かに何光年も遠い星にいる宇宙人達は、地球に近い惑星にいる仲間から次元転送中継をしてきている映像を観て、実験に満足していた。この地球は今もってとても信じられない古い情報形態で出来上がった世界であるが、こんな感じで情報寸断をしてガセネタを流すと、ここまで、パニックを起こし、集団行動をするのであるなと、彼らは笑ったようであった。もう少し、様子を見るか。征服するのは。少し遊ばせてもらおう。
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