オフィスとハードボイルド

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ハードボイルド

オフィス

ハードボイルド小説の主人公である探偵にとって、オフィスは大変重要なアイテムであることは間違いない。ハードボイルド小説好きの人なら、きっと、彼らの探偵オフィスと一緒のものを欲しがったに違いない。西新宿の裏通りあたりにね。それも、かなり古いビルで建付けも悪く、階段も狭く、探偵が寝泊まりしているようなところだろうな。机も卓上スタンドも古く、照明も暗く、煙草の匂いが充満しているような。

なので、今回は、オフィスとハードボイルドについて、好きな文章を紹介していこう。紹介先は、いつものレイモンド・チャンドラー小説のフィリップ・マーロウと原尞の探偵沢崎のオフィス渡辺探偵事務所にしようではないか。

二人の探偵の気持ちがこもっているオフィスを、しばし、覗いてみようではないか。

ロング・グッドバイ

少し不在にしたら、郵便物がたまる感じだよな。やはり。しかし、フィリップ・マーロウはオフィスに戻っても、郵便物の整理一つの表現も面白いな。結局、何ひとつ残らなかった、か。これだよ。

私はオフィスに入り、床の郵便物を拾い上げた。机の上には更に多くが置いてあった。夜に清掃する女がそこに載せておいてくれたのだ。窓を開けてから郵便物の封を切っていった。いらないものを片端から捨てていくと、結局何ひとつ残らなかった。ブザーを押してもうひとつのドアを開錠し、パイプに煙草を詰めて火をつけた。そして、腰を下ろし、誰かが悲鳴を上げて助けを叫ぶのを静かに待った。

ロング・グッドバイ 村上春樹訳

カーウェンガー・ビルの六階にあるつつましいオフィスで、私は朝の恒例行事として郵便物を使ってダブルプレイの練習をした。郵便受けから机に、机からごみ箱に。ティンカーからエヴァーズに、エヴァーズからチャンスに。見事な併殺網。それから机の上のほこりを吹いて払い、写真複写を広げた。

ロング・グッドバイ 村上春樹訳

私が殺した少女

探偵沢崎のオフィスは西新宿にある薄汚れたビルの二階にある。

決して陽の射さない二階の廊下を通り、一人しか通れない階段を降り、鍵のかからない郵便受けの前を通って、私はビルの外に出た。二十年以上の歳月と排気ガスのせいで薄汚れたビルの正面を迂回して、事務所の窓を監視している人影と同じ舗道に立った。

原尞 私が殺した少女

ロマンチックにハードボイルドだな、沢崎よ。

西新宿の事務所に戻って、郵便受けをのぞくと今朝の新聞と一緒に、ハネの折り方に特徴のある“紙ヒコーキ”が入っていた。私は狭い階段を昇り、暗い廊下を通って、二階の事務所の鍵を開けた。窓のブラインドを上げ、窓を開けて空気を入れ換えた。デスクに座って、紙ヒコーキの折り目をひろげると、スペインのフラメンコ・ダンサーが『ドン・キホーテ』を踊るというチラシだった。その余白にいつものボールペン書きの字が並んでいた。昨夜の八年ぶりの瞬時の再会に触れたいつもの倍くらいの長さの渡辺の便りだった。読む必要もないくらい一字一句予期した通りの文面だった。私はタバコに火をつけ、同じ紙マッチの火でチラシにも火をつけようとした。いままで渡辺からのすべての便りをそうして灰にしてきた。私は急に思いとどまってマッチの火を消した。それから、チラシを元のヒコーキの形に戻す作業に取りかかった。折り目が残っていてもなかなかむずかしくて、三十分後にようやく紙ヒコーキになった。窓に近づくと、ハネの反り方を調べ、風向きを確かめ、風の強さを計り、着陸地点を点検した。こういうことでは、私たちはいきなり三十年前の専門家に戻るのだ。私はヒコーキを初夏の午後の風にそっと乗せた・・・・

原尞 私が殺した少女

そして、夜は甦る

沢崎の事務所の場所は多分あそこあたりだな。新宿に職場のある私にはわかるのだった。

信じられないことだが、低家賃の雑居ビルが密集する私の事務所のある区画から、ほんの五百メートル南に歩くだけで、超高層ビルが林立する新宿副都心に達する。わずか一キロ四方の地域に、この街の老朽化した顔と最新の顔が道路一つ隔てて鼻を突き合わせているのだ。

原尞 そして夜は甦る

さらば長き眠り

冬の終わりの真夜中近く、沢崎は四〇〇日ぶりに東京に帰ってきたのだった。愛車の古いブルーバードに乗って、西新宿の事務所に戻ったのだ。伝言を預かっている浮浪者が事務所にいて、そこから、話が始まる。

それから十五分かけて事務所の掃除をした。誰も訪れることのないアパートと違って、埃りをかぶったままにしておくわけにもいかなかった。だが、四〇〇日分の埃りと蜘蛛の巣がなくなったくらいでは、老朽ビルの薄汚れた室内は少しも代り映えしなかった。釣りをする老ヘミングウェイの写真を配した去年の一月のままのカレンダーがこの事務所で一番新しいものだったが、何の役にも立たないので屑カゴに捨てた。

原尞 さらば長き眠り

壁のシミが象形文字か。上手いね。

私は毎朝十時に事務所に出て、夜の八時には事務所をあとにした。午前中は新聞を読んで過ごし、午後は大竹九段の『定石の発想』を読んで過ごし、夕方からは薄汚れた事務所の壁のしみで書かれた難解な象形文字を読んで過ごした。

原尞 さらば長き眠り

高い窓

田中小実昌の翻訳の「高い窓」にフィリップ・マーロウの事務所の説明がかなり細かく書かれていた。

おれは応接室をのぞきこんだ。埃のにおいがするだけで、ほかにはなにもころがっていない。おれは、もう一つ窓をひらき、奥とのあいだのドアの錠をあけ、自分の部屋に入った。かたい椅子が三つに、回転椅子が一つ。ガラス張りのひらたい机に、みどり色の書類ケースが五つ。そのうち三つはからっぽだ。壁には、カレンダーと、枠にはめた私立探偵の免許証。卓上電話、ステインをぬった木の戸棚の中に、水の入ったボール、帽子掛け、床の上にもうしわけにしいてあるような絨毯。二つの窓はあいていて、居眠りをしている歯のないじいさんの唇のように、風にふるえている網模様のカーテンがあるだけの部屋だった。

高い窓 田中小実昌訳

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